深川学区まちづくり協議会に附した「深川」の地名の由来について、高陽町史では、1060年(康平3年)さらに1070年(延久2年)の史料で三田郷「深波村」と表記されているものがあり、おそらく「深波(ふかわ)村」と読んでいたと考えられるとしています。また、1085年(応徳2年)の史料では、三田郷の中に「深洲村」の表記があり、これが深川村に通じるのではとしています。(高陽町史) そして、芸藩通志(73巻)の明光寺の項で、1187年(文治3年)に、「安芸国北庄、深河」という表記があり、このころ(鎌倉時代の初めころ)から新たに「深河」が用いられはじめ、それが今日まで長く続く「高陽町深川」の地名のベースになったのではなかろうかとされています。
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亀崎橋から太田川に向かって流れる三篠川 |
〇まちの歴史について
*以下の説明は、「高陽町史(昭和54年3月31日発行 編集者・広島市)」及び「芸藩通志」から引用させていただきました。
-初回は、深川の名称の成り立ちから明治時代まで-
(深川の名称由来)
深川学区まちづくり協議会に附した「深川」の地名について、高陽町史から歴史的な経緯をひも解いてみると、高陽町史では、1060年(康平3年)、さらに1070年(延久2年)の史料(文書)で、三田郷深波村と表記されているものがあり、おそらく「深波(ふかわ)」村と読んでいたと考えられるとしています。
1085年(応徳2年)の史料では、三田郷の中に諸木村、深洲村、小田村があり、これらの村は高陽町域に求めることも可能であろうとしています。このうち、深洲村は、深川村に通じるのではとし、これは、前述の深波(ふかわ)村から推論できるとしています。(高陽町史)
そして、芸藩通志(73巻)の明光寺の項で、1187年(文治3年)において「安芸国北庄、深河」という表記があり、このころ(鎌倉時代の初めころ)から「深河」が新たに用いられはじめ、それが今日まで長く続く「高陽町深川」の地名のベースになったのではなかろうかとされています。
深川は、周辺の地域と合わせて、天文10年(1541)ころから毛利元就の支配下にありました。元就が治めた地域の中で最も安定的な支配を行ったのは深川であったそうです。当地域は、毛利氏が、関ヶ原の合戦で東軍(徳川勢)に敗れ、周防・長門の二か国に押し込められるまで、毛利氏の支配下にありました。(毛利氏の後は、福島氏、浅野氏の支配と続き、これが江戸幕府末期まで続きます。)
(深川地域の宗教の特徴)
深川周辺で、真宗(浄土真宗)の勢力がさかんになるのは十五世紀後半ですが、それ以前では、中深川の妙覚寺(後の西法寺)、久村の元成寺のように禅宗の浸透も見られましたが、武田氏との関係もあって真言宗の寺院が多かったそうです。中深川の明光寺は可部綾谷の福王寺の末寺で、境内に現存する薬師堂も寺号を牛尾山正明院という真言寺院であったとのことです。
この後、先ほどものべたように、十五世紀後半以降、仏教系寺院のうち真宗へ改宗するものが現れてきます。当地域では、真言宗から真宗へ改宗したものに中深川・明光寺、下深川・善徳寺、禅宗から真宗へ改宗したものに中深川・西法寺があります。
一方、神社では、中深川の亀崎八幡宮が有力な神社とされ、永正2年(1505)、亀崎神社の久都内氏のもとには、毛利弘元から神社を管理する者として安堵する旨の下知状が渡され、その後、これに弘元・嫡男の元就の花押も書き加えられているそうです。
(江戸時代の深川筋の物産)
時代は下がって、近世(江戸時代)に入ると、高宮郡(深川筋を含む)でも、農業をはじめとして様々な産業が発達しました。
深川筋とよばれる高陽町地域では、三篠川が本流の太田川と交わる地域にあって、農業のほかに林産加工、水産、水運など多彩な農閑余業が成立して、広島城下町及び可部町の近郊農村としての特色を備えて発展しています。(農閑余業:農業の合間に行う副業的な仕事)
1825年ころ、頼杏坪を中心にまとめられた「芸藩通志」では、深川地域について、次のような物産をあげています。
「芸藩通志」掲載内容(関係部分抜粋)
松茸 (前段略)中深川の明光寺山に産する、佳なり
梅 久村の一屋、下深川の尾和に出るもの、肉深し
柿 河戸、可部、中島、下深川等の村の産。味殊によし、数種あり、白柿に製して、四方へ出す
山茶科(はたつもり)
即令法(すなわち、りょうぶ)なり、深川村邊多く、摘て貯へ食料とす。
香魚(あゆ)
大田川にあるを、佳とす、河戸官梁ありて、これをとる、其餘は、私魚なり、又、下深川、今井田、柳瀬のもの鵜匠もあり
布 木綿、麻糸諸村にも製すれど、下深川村より多く出す
木履 中島、下深川等、凡七村に製す (以下 略)
油・蠟 可部、中深川、下深川、狩留家村、この両種を酢る(しぼる) 蠟は両深川にて製す
こうした特産物は品質改良や生産量や販路の拡大維持をはかっていったものもあるようですが、明治以降になれば在来産業として生き延びることができず、衰退したものが多かったそうです。
(近世の交通網)
<陸上交通>
豊臣秀吉の全国統一の実現による全国的規模の交通政策は、毛利氏の領国内にも浸透するところとなり、道路、橋梁の整備などが進められました。
この時期、深川筋村々に直接関係をもつものとしては、毛利氏が広島城の建設に当たって、吉田から広島に至る道路の整備を急いだことがあげられます。
高田郡吉田の南部から国司、戸島を通って三篠川上流へぬける豊島大道、三篠川に沿ってくだる中郡道、中郡から佐東への往返本道、さらに佐東深川から温品を経て広島へいたる道路の整備です。この往還道は、吉田・広島間の最短距離にあたっており、以後、毛利氏は、この往還道を利用するようになりました。
1600年(慶長五年)、芸備両国へ入封した福島正則は、年貢米や領内物産の運送など、領国経済の成立をはかる立場から輸送路の開発整備を推進しました。中筋往還の重要性がますます増加し、深川への年貢蔵の設置や三篠川の舟運開発を進めました。
浅野氏の治政下に入ると、領国支配の体制や経済の発展があって道路交通の制度、施設がますます整備されました。
太田川の支流三篠川の舟運開発が進むと、高田・世羅・賀茂諸郡の年貢米が、この流域に積み出しされ、さらに、薪・炭・鉄その他諸商品の輸送が活発になると、上下両深川・狩留家の川湊に達する道路整備も行われ、深川筋村々の道路網は、寛永・寛文(1625年頃から1670年頃)までにほぼ出来上がりました。
<舟運の展開>
毛利輝元が広島城の建設(1591年)にあたって、太田川の水運を利用したことは広く知られており、そのころ、すでに安北郡下深川村、四日市村あたりまで舟運が通じていました。
すなわち、三篠川筋の諸物資は、人馬の背で下深川湊に集められ、ここから船に積んで広島へ送られていました。
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*写真は、当時、船が広島へ向かうために利用した三篠川と
根の谷川及び太田川とが合流する八丈付近。
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その後、1600年(慶長五年)の福島正則の治世下まで、ほぼ同様の状況にありましたが、
福島正則の領国経済成立を目指す政策によって、三篠川上流域への舟運開拓の道が開けました。
舟運開発は技術的な課題等から紆余曲折があったものの、1639年(寛永16年)には上流の秋山村まで舟路を開削し、通船を実現しました。
このように大名の領国経営の一環として内陸部への舟運開発が積極的に進められた結果、三篠川上流高田郡長田村まで艜船(ひらたぶね 貨客船)が通船するようになりました。
さらに、藩は、下深川村までの通船に着目して、下深川村に米蔵を設置し、三次・吉田等の芸備奥郡及び豊田・賀茂・世羅郡からの年貢米積み出しの拠点としての役割を持たせました。
こうした舟運の展開に合わせて、下深川の尾和地区には、船頭が宿泊したという舟宿があったとされています。
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*写真は、下深川の善徳寺さんの前にあった、舟宿の跡あたり。
現在は、河川改修で少し後ろに下がっている。
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(近代・明治時代の海外移民)
我が国の本格的な海外移民は、明治18年1月、政府がハワイ王国との協約に基づき、ハワイの農園で働く出稼労働者を移民船で送出した時より始まるそうです。
本町域(旧四か村)からの最初の官約移民(政府取扱いのハワイ移民を指す。)は明治18年6月、第二回の移民船山城丸で渡航した7人(口田村6人、狩小川村1人)だそうです。
その後10年間に 253人が渡航され、旧村別にみると、口田村が全体の56.1%(142人)、深川村が29.2%(74人)、そして狩小川村となってます。(外務省外交資料館蔵)
移民先での仕事は甘蔗耕地での耕作作業や砂糖製造などの農業労働だったようです。ただ、この移民は、永住を目的としたものでなく、一定の貯金ができれば大金を持参して帰国することを目的とした出稼ぎ的な性格のものだったようです。ただし、すべての移民が成功者であったわけでなく、資料 (高陽町史)によれば、現地で苦労してそのまま残留したり、行方不明又は病気で亡くなった方など様々な状況があったようです。
明治27年(1894)に移民保護規則が制定され、移民取扱業務が政府から民間に移譲されます。その結果、民間での移民の募集、渡航斡旋が行われるようになります。
広島市でも、明治27年10月にハワイへの移民業務を取り扱う海外渡航株式会社が設立されます。広島地域では、明治35年以降この取扱い業務が盛んになり、安佐郡深川村大字中深川にも、関西移民合名会社が設立(明治35年12月)されます。この会社の最盛期には、中国・九州・四国の各地域に出張所を置き、特に、安佐郡内と熊本・愛媛両県を中心に営業活動を行っています。
しかし、それでも移民会社のなかでは会社規模は小さかったようで、経営はかなり厳しい状況が続いていたようです。
明治末期から大正期にかけては、本地域(狩小川、深川、落合、口田各村)は、典型的な移民卓越地域だったようです。深川村や口田村については、安佐郡全体の平均を上回る移民率をとなっています。(大正2~6年にかけての人口に占める移民率: 深川村10.5~15.5%、口田村11.1~15.8%、 安佐郡平均 8.9~10.0%)
移民先のほとんどは、アメリカ本土、ハワイが占め、そのほか、残りわずかをカナダ、フィリピン、南米ペルーが占めています。
以上、深川の名称の成り立ちから明治時代までの特徴的な歴史をまとめてみました。