わがまちの歴史・・・・・畑賀村に起こった主な出来事

 

 畑賀町(旧畑賀村)は遠く弥生時代(BC300AD300)の遺跡の残る、古くから人の住ん

いた形跡のある村落です。縄文時代の痕跡は現段階では発見されておりませんが、少なくとも

2000年に及ぶ歴史を背負っていることだけは確かです。

 

 旧畑賀村字影山において2基の横穴式石室が発見されていること、付近に須恵器の破片が散乱

していたこと、また、八幡宮(中須賀神社)境内に古墳の存在が認められたこと等など村落の

発祥が弥生時代~古墳時代に遡ることはいろいろな文献で確かめることができます。

 

 時代は下って慶長5年(1600年)11月、福島正則が芸備(安芸と備後)両国49万石を拝領し、

この時代に行政組織としての畑賀村が誕生しました。これより前、延暦23年804年)に入唐

した空海は2年後に帰朝し現在の蓮華寺山山頂付近に「蓮華寺」を建立しています。

大同元年(806年)のことです。全盛時代の蓮華寺には29坊に及ぶ塔頭(末寺)がありました。

 

 その後、蓮華寺は1590年代に福島正則による焼き討ちに遭って殆ど焼失しましたが、慶長7

1602年)末寺の一つ「八葉山谷の坊慈雲院品秀寺はちようざんたにのぼうじうんいんほんしゅうじが再興され今日に到っています。

芸藩通史によれば19世紀始めの畑賀村の人口は1679人、戸数は306と記録されています。

 

 

■□■□ 明治時代から畑賀村に起こった主な時事 ■□■□  

 

明治7年(1874年) 養生舎(小学校)がつくられる。
同10年(1877年) 養生舎が畑賀学校と名称変更される。
同20年(1887年) 畑賀学校が畑賀簡易科小学、更に、畑賀簡易小学校と名称更される。
同24年(1891年) 畑賀簡易科小学校が畑賀尋常小学校と名称変更される。
同41年(1908年) 畑賀尋常小学校が畑賀尋常高等小学校と名称変更される。
大正10年(1921年) 最寄りの国鉄駅(JR駅)「安芸中野駅」がつくられる。
同15年(1926年) 畑賀地区・瀬野川筋が大水害に見舞われる。
昭和8年(1933年) 広島市立畑賀病院(結核療養所)が設立される。
同16年(1941年) 畑賀尋常高等小学校が畑賀国民学校と名称変更される。
同18年(1943年) 広島市立畑賀病院が日本医療団畑賀病院と名称変更される。
同20年(1945年) 日本医療団畑賀病院、畑賀国民学校で原爆負傷者を受け入れる。
同22年(1947年) 畑賀国民学校が畑賀村立畑賀小学校と名称変更される。
日本医療団畑賀病院が国立広島療養所畑賀病院と名称変更される。
畑賀地区にバス(乗合自動車)路線が開通する。
同28年(1953年) 畑賀保育園が、中須賀に建設され、開園する。
同31年(1956年) 畑賀村・中野村・瀬野村の三か村が合併し、瀬野川町となる。
畑賀村立畑賀小学校が瀬野川町立畑賀小学校と名称変更される。
同37年(1962年) 瀬野川カンツリー倶楽部が開設・営業開始する。
同42年(1967年) ひかり幼稚園が開園する。
同48年(1973年) 瀬野川町が広島市と合併し安芸区となる。
瀬野川町立畑賀小学校が広島市立畑賀小学校と名称変更される。
畑賀地区に瀬野川福祉センター・畑賀連絡所が開設される。

以上のように時代とともに、小学校の名称が何回も変更されました。

旧畑賀小学校(2階建て木造校舎)北側にあり

現在の畑賀小学校(3階建て鉄筋校舎)南側に移転


畑賀村水害碑(畑賀小学校内)

殉国慰霊塔(中須賀神社内)


「畑賀村水害碑」は、畑賀小学校の敷地の中に建てられいます。
正面下段には水害のあらまし、上段には死亡者(36名)の氏名が記されています。
わが町は、何度も水害に遭っていますが、その中でも大正15年9月11日
発生した水害では、特に大きな被害がでましたので、災害復旧後の昭和5年に
この水害碑が建てられました。災害発生から80年を過ぎた今でも後世の人達
に語りつがれています。

「殉国慰霊塔」は、中須賀神社の隣に建てられています。
北清事変・台湾事変・日露戦争・支那事変・大東亜戦争で亡くなられた人(56名)を祭っています。