戸坂学区について

禅昌寺(山根三丁目)から見た太田川の手前が戸坂学区(2011.9.27撮影)
  禅昌寺(山根三丁目)から見た太田川の手前が戸坂学区(2014.11.15撮影)

禅昌寺(山根三丁目)から見た太田川の手前が戸坂学区(2018.5.20撮影)

戸坂
の地名は、史料上初めて見られるようになるのは鎌倉期のことである。鎌倉中期の寛元4年(1246年)の「安芸国司某下知状写」<厳島野坂文書『広島県史』古代中世資料編Ⅱ>に、「戸坂久須木垣内」あるいは「戸坂門田」の記載が見え、国衙領関係の資料に「戸坂」の名が姿を見せている。
戸坂は、室町期には守護武田氏の家臣が領しており、その後大内氏、毛利氏へと支配者は変わる。この間どの範囲までが戸坂村といっていたのか、知る手がかりはない。明治9年(1876年)大区小区制による一時的な統合はあったが、戸坂村の範囲は昭和30年(1955年)4月の広島市への編入まで、近世村のままであった。編入後、戸坂村は広島市戸坂町となり、昭和49年(1974年)住居表示を実施し、戸坂はその総称となり、政令指定都市移行後は東区戸坂地区となった。

※「戸坂村史:平成3年2月広島市(広島市公文書館)発行」より抜粋

戸坂学区には、10町内あり、 人口及び世帯数は、次の 戸坂学区・人口世帯数2023.09末.pdf を参照願います

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