戸坂案内
戸坂歴史探訪
27年1月29日、広島県健康福祉大学より 14名来られました。
戸坂アーカイブス委員会4名、戸坂公民館1名で戸坂を案内しました。
竜泉寺観音堂・琴比羅神社 9:55
戸坂町内を広く見渡せる場所で
三宅神社で記念撮影 10:50
長尾古墳群より、桜御前神社へ 11:50
くるめ木神社 12:15 (後ロイヤルホスト戸坂店での、昼食に行かれました)
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東区歴史と文化でまちづくり交流会
第6回史跡見学会 報告
担当 温品ふるさと散策クラブ
日時 平成26年3月27日(木)9:00~
場所 温品公民館➔須賀谷第1古墳の土壙➔矢田山神社➔温品公民館
安芸高校建設現場の畳谷遺跡(弥生式後期)や、須賀谷古墳、毛利氏の吉田と広島城を結ぶ中郡道、温品川の恩恵と水害について説明を受けた。真ん中の写真、広島県立歴史民俗資料館 下津間康夫さん
古墳出土品 勾玉ガラス小玉 金耳環 刀子と鉄鏃
この古墳は他にも多様な副葬品が出土していて東京国立博物館に鏡など収蔵。
安芸府中道路建設で温品ゲート横に移設された 樫の木が御神体の矢田山神社
須賀谷第一古墳の石棺墓
写真、文 泉田彰子
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東区歴史と文化でまちづくり交流会
第5回史跡見学会 報告
担当 戸坂アーカイブス委員会
日時 平成25年12月8日(日)9:00~12:30
場所 戸坂公民館➔長尾古墳➔戸坂公民館
公民館から長尾古墳へ着きました。 (財)広島市未来都市創造財団
開会あいさつ、講師紹介。金子館長さん 文化科学部文化財課主任 高下 洋一さん
後ろには、長尾古墳登り口と看板が見えます。 長尾古墳群について、1回目の解説
のこぎりや鎌をもっていよいよ開始 その土地の有力者のお墓で、
高貴な人のために造られる形の前方後円墳
休憩時間に2回目の解説。
おかげさまできれいになりました。 今年は特別に公民館に戻って3回目の解説
ありがとうございました。 発掘調査報告時の写真も見せていただきました。
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東区歴史と文化でまちづくり交流会
第4回史跡見学会 報告
担当 牛田の歴史と文化を生かしたまちづくりの会
日時 平成25年11月3日(日)9:00~12:30
場所 安楽寺➔塚部の石灯籠➔早稲田神社➔蓮照寺➔天神岩清水
安楽寺の大銀杏 ジャンボ紙芝居⋯善福寺(東京麻布)の庭で、親鸞さんが杖を逆さに突き刺し「浄土真宗がさかんになるしるしに、根が下り芽が出る」といわれた通り根が付き大銀杏になった。その枝を浅野の殿様の家来、平田宅六が持ち帰り安楽寺の庭に植えた。道中、乾かないように大根に刺して持ち帰ったそうです。
木造如意輪観世音菩薩座像 塚部の石灯籠とその盃状穴 早稲田神社
弥生時代の古墳跡 円筒形墳墓で、 貝塚の出土品 角筆文献 弥生中期の 成人男子の顎の骨が見つかった。 先の尖った箸の様なもの
で書かれた文字の痕がある
各所にて、牛田木遣り保存会の皆さんに道中歌を聞かせていただきました。
♪~菅 大臣の 天神清水 語り継がれし 古井戸 残る
清水谷から 縮景園に 延々 引いた 竹樋 遺構~♪
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第3回史跡見学会 報告
担当 二葉の里歴史の散歩道ボランティアガイドの会
日時 平成25年10月8日(火)9:30~11:30
場所 饒津(にぎつ)神社、明星院、明星院会館
饒津神社は、天保6年(1835年)浅野藩主斉粛(なりたか)が長政を祀るため広島城の鬼門の方向にある明星院境内の西半分の地に造営された。
昔の人は、にきつさんと呼ぶ
横にとても長い石段 本殿 原爆の傷跡が残る石畳
明星院は創建不明で、護摩で火が出て建直し、原爆でも、倒壊消失昭和49年(1974)に再建された。
本堂 大石主税 大石内蔵助 48体目の像 天野屋利兵衛 原爆で壊れた右手
赤穂義士絵巻物 6巻 冷泉為恭筆(江戸時代) お便所の守護神
すべての汚濁を清める うすさま明王
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東区歴史と文化でまちづくり交流会
第2回史跡見学会 報告
担当 中山まちおこし委員会
日時 平成25年6月13日(木)9:30~11:30
場所 中山集会所➔大原神社・黄幡社➔モリアオガエル産卵池2か所➔石仏社
➔農具展示場所
東区歴史と文化でまちづくり交流会 大原神社(黄幡社)水害に悩んでいた為、土剋水(土が水にかつ)と言う考えから土を司る神、より力のある凶神を信じた。
モリアオガエル産卵池 白い袋が卵
石仏社 (石橋の石がご神体) 農具展示場所 (昔の農具が沢山)
牛馬が荷車を引いて通るといつも急に荷が重くなりすべり転んで足を折った。村の古老の枕元に石橋の精(白髪の老人)が牛馬や人の通行で痛い苦しい、救ってくれといわれ石を取り出し祀った。
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東区歴史と文化でまちづくり交流会
第1回史跡見学会 報告
担当 福田歴史文化保存会
日時 平成25年4月26日(金)9:30~12:30
場所 福田公民館➔木の宗山の烏帽子岩➔黄幡神社➔なかずの池
➔廃妙法寺跡
「狐ヶ城烏帽子岩の下に宝物が埋まっている」光町尽三郎 伝
石工 梅中忠兵衛が 西善寺の石積改修時と明治24年5月に見つけた。
(ほぼ南向きの)巨石前面下に二個の磐石、その下から
変形細形銅剣、広鋒銅戈、が共に主軸を南北に鋒部を南向きに、
その西20センチに福田式銅鐸が鈕を東に底部を西に水平に置かれ
更に40数センチ離れて丸底の土器があったそうです。
銅鐸は近畿文化、最西端出土。銅剣は北九州文化で、この二つが同時に出土しているのは福田、金毘羅、小豆島。
この銅鐸は最も古い型式「福田型」弥生中期とされる。
特徴は邪視紋・横帯紋銅鐸。目のような模様がある。
ふもとに黄幡神社。その右手前の細道を行くとなかずの池と妙法寺跡がある。
そのお寺で弘法大師が説教中、かえるがうるさかったので「静かにしてくれんかのう」と言うと鳴きやんだことからなかずの池とよばれる。
池に蛙の像がある。
烏帽子岩 銅鐸、銅戈、銅剣
黄幡神社 なかずの池 蛙の像