わがまち「井原地区」の歴史

■井原地区の歴史(概略)
 「井原」という地名は、今から千年前の古文書に確認することができ、そのころすでに独立した行政区であったことがうかがえる。
 14世紀初頭の南北朝時代、足利尊氏の側近として力をつけていた高師直(こうもろなお)の弟・師重(もろしげ)の子・氏教(うじのり)が地頭として井原に来往し、井原を姓として名乗るようになった。
 初代の氏教依頼、10代の小四郎(元尚:もとなお)まで約250年間井原に在籍した。
 その後、江戸時代は福島氏・浅野氏の時代を経て、明治以降の時代へとつながる。

■ 井原地区の年表(随時更新中)
<原始>
【旧石器時代:約12万年前~B.C.1万4千年
【縄文時代:B.C.1万4千年~B.C.4世紀
【弥生時代:B.C.4世紀~A.D.3世紀

■「蛤刃石斧(はまぐりはせきふ)」と「打器」
 食べ物を切るために使ったとされる石の斧であり、平成5年(1993)に日詰の圃場整備の際、田の底から見つけたもの。
 これ以外にも、終戦後、栄堂川と三篠川が合流するあたりでも、下市の子供が同様の物を拾って学校に持参したという話があり、縄文・弥生の時代にも人々が暮らしていたことが伺える。
 
<古代>
【古墳時代:3世紀中頃~7世紀
■井原地区に点在する古墳
・録泉寺古墳群【山根】・・・前方後円墳ではないかという古墳あり。
・下甲田古墳群【甲田】・・・横穴式石室であったが全壊し、わずかに石が残る。土器が出土。
・南甲田古墳【甲田】・・・横穴式石室か。円墳丘は崩れ、石の一部が残る。
・亀井古墳【甲田】・・・須恵器の提瓶(ていべい)土器が出土。
・光仙寺古墳群【戸石】・・・盗掘され崩れ、原形はとどめていない。
・新宮古墳群【新宮】
・迫田の古墳群【迫田】・・・盗掘され、封土が流出したものや覆った天井石が取り除かれるなど、保存状態は良くない。土器や鉄製の剣などが出土したようであるが現存しない。
・高山古墳群(市古墳群)【日詰】・・・17~18基が点在するも、盗掘されている。

【飛鳥時代:6世紀末~710年
■傍地石 (ぼうじせき)
 大化の改新(645年)に当たり、全国に「国・郡・里」制が布かれ、井原地域は三田郷(みたごう)に、向原の有保・長田地域を風早郷(かざはやごう)に組み入れられた。
 新宮にある傍地石は、この両郷の境を明示されるための境石とみられる。 (平成8年(1996)での調査により判明) 

【奈良時代:710年~794年
■律令制に伴い、地方行政単位が”国郡郷”となる(715年)
 <"安芸国高田郡三田郷 "となったか>

【平安時代:794年~1185年
■延喜式(927年)
 <高田郡・・・七郷(三田・風速など)の初見>
■高田郡司解(1085年)
 「安芸国三田郷」の村名に「井村、佐々井村、熊崎村、高山村、小田村、野原村、神田村」等、現在の井原の地名として比定できる名称が見られる
■散位佐伯忠国田地売券(野坂文書:寛治3年(1089))
 <井原村の初見  ・・・「合肆段 三田郷井原村字斗前坪 四至」>
 
<中世>
【鎌倉時代:1185年~1335年
■東宝記 
 院宣を下し、安芸国平田村・三田郷・井原村・高屋余田を国衙に付け、東寺に知行を安堵(元応元年(1319))


【南北朝時代:1336年~1392年
■鍋谷城跡を含む井原氏関連の遺構
 南北朝時代に往来した井原氏の城跡とその麓の根小屋(ねごや)地域に拡がる関連遺構。
 城跡には、竪堀(たてぼり)、堀切(ほりきり)、井戸、土塁などが程良く確認でき、特に竪堀は大規模でしかもその数も多く確認される。
 根小屋地域には城主の館跡や墓所跡、馬場跡などがあり、典型的な中世の城郭遺構がいまも残る。
■井原河原の合戦(正平7年(1351)

【室町時代:1392年~1573年
■般若谷の戦い(天文3年(1534)または天文9年(1540)
 尼子に属していた佐東銀山城主の武田信実が軍を起こし、吉田へ攻め入ろうとした赤柴での合戦。
 今も甲田の赤柴山林道を進むと、右側に武田武将の墓がある。

<近世>
【安土桃山時代:1573年~1603年
■毛利輝元の書状(天正11年(1583) 閥閲録巻四十)
 毛利輝元が、讃岐国賀島での井原小四郎(元尚)の弓技を賞したもの

【江戸時代:1603年~1868年
■安芸国備後国知行帳(1619)
 <町村名>井原村 <石高>1490石680

■三篠川の舟路が井原村まで開通(元禄3年(1690)
 年貢米を広島に集荷するための輸送路として、三篠川に川舟の舟路を整備。
 三篠川と栄堂川が合流するあたり(隠居淵)に、川舟の船着き場があり、川舟10隻が置かれる。

■国郡誌下しらべ書き出し帳(文政2年(1819))
 井原村についての記述があり、過去の貴重な文献として引用されている

■芸藩通史(文政8年(1825))
 安芸国広島藩の地誌
 <町村名>井原村 <石高>1492石008 <戸数>374戸 <人口1862人>

<近現代>
【明治時代:1868年~1912年
■廃藩置県(明治4年(1871))  <廣島県 高田郡 井原村>
■大区小区(明治5年(1872))  <廣島県 第六大区 三小区 井原村>
■井原小学校の前身である進徳館(東日詰)・育英館(市)が開校(明治5年(1872))

  ・育英館を村立とし、進徳館を廃館(明治8年(1875))
  ・「井原村立井原小学校」に改称(明治10年(1877))
  ・「第39学区公立井原小学校」に改称(明治17年(1884))
  ・「井原簡科小学校」に改称(明治20年(1887))
  ・下市に新校舎完成(明治33年(1900))
  ・木造2階建瓦葺校舎の完成。斬新なデザインで見学者絶えず(昭和13年(1938))
  ・「井原國民学校」に改称(昭和16年(1941))
  ・「井原小学校」に改称(昭和22年(1947))
■郡区町村編制法(明治11年(1878))  <廣島県 高田郡 井原村>
■井原郵便局の開設(明治15年(1882))
■広島・三次街道の完成(明治19年(1886))
■明治39年(1906)の大火

 市全体に及ぶ大火であり、浄満寺も焼失。旭橋たもとの綿打工場で遊んでいた子供の花火が原因と伝わる。

【大正時代:1912年~1926年
■芸備鉄道(現・芸備線)の開通(大正4年(1915))
  井原地区内の駅として「井原市駅」が開設

【昭和時代:1926年~1989年
■太平洋戦争の開戦(昭和11年(1941))
 ・戦況の悪化に伴い、学童集団疎開を受け入れ
 (平成27年発行・大牟田章氏著「ぼくの広島・井原村学童疎開日記」に当時の様子が記録されている
■広島市への原子爆弾投下(昭和15年(1945))
 ・広島陸軍病院三滝分院として、井原小学校へ負傷者を収容
■「いづみ保育園」の開設(昭和27年(1952))

 ・昭和43年(1968) 社会福祉法人三篠会が設置認可され、経営主体となる
 ・平成13年(2001) いづみ保育園を小越(高南学区)へ移設
■井原村立養老施設「三篠園」の開設(昭和30年(1955))

 ・昭和38年(1963) 老人福祉法施行により、養護老人ホームとなる
 ・昭和44年(1969) 社会福祉法人三篠会が経営主体となる
 ・昭和47年(1972) 特別養護老人ホームを開設
 ・平成2年(1990) デイサービスセンターを開設
■四つの村が合併し"白木町"となる(昭和31年(1956))  <広島県 高田郡 白木町 井原>
■神乃倉山公園の開発(昭和35年(1960))
  谷岡国一氏が西日本随一の桜の名所にと願って開発に着手
■広島市と合併(昭和48年(1973))  <広島県 広島市 白木町 井原>
■新宮神社の大銀杏(昭和54年(1979))
  広島市天然記念物に指定
■広島市が政令指定都市となる(昭和55年(1980))  <広島市 安佐北区 白木町 井原>
 
【平成時代
:1989年~2019年

■井原郷土史同好会により「ふるさと井原の探訪」発行(平成16年(2004))
■「ミシュランガイド広島 2013特別版」にて「桃花庵」が二つ星と評価(平成25年(2013))
  「ミシュランガイド広島・愛媛2018特別版」でも、二つ星の評価を得ている。
大牟田章氏により「ぼくの広島・井原村学童疎開日記」発行(平成27年(2015))
■平成30年豪雨災害(平成30年(2018))
  ・JR芸備線・主要道路・上水道の寸断や、家屋への浸水などが至る所で発生し、地域の生活に大きな影響を及ぼす。
 ・JR芸備線は、白木山・狩留家間の三篠川第一橋梁が流失したため運休となり、その間は代行バスが運行
 ・井原小学校への避難所開設や、避難所への空調機器の臨時設置、広島市や自衛隊による給水活動が行われた。
 
【令和時代:2019年~
■JR西日本が「井原市駅のシンプル化工事」として、木造駅舎等を撤去(令和元年(2019))
 ・ステンレス製の簡素な駅舎が設置されるも、某タレントから「イナバ物置」とローカル番組内で称される。
■JR芸備線が平成30年豪雨災害から全線復旧(令和元年(2019))
■新型コロナウイルスの世界的な流行により、地域行事の休止が長期にわたり頻発(令和2年(2020)~現在)

参考文献:
「ふるさと 井原の探訪」(井原郷土史同好会編)
「広島の歴史通なら知っておきたい 郡中國郡志と中郡古道~社・寺・祠~」
(編集:てくてく中郡古道プロジェクト)