お知らせ
わが町(町づくりの会)の取り組み
1) 可部街道町並みの活性化と保存 | 江戸末期から昭和への歴史有る古民家・町並みの保存 |
2) 可部の町めぐり | 可部旧街道に残る商家・屋敷・古民家を開放して明治の香りあるイベント |
3) 花の散歩道 | 花と水のある路地道は心安らぐ憩いの散歩道 |
4) 町家コンサート | 古民家から流れ出る文化のリズムを |
5) 写真展「私の好きな可部の町」 | 年一度一般の方から可部のお気に入りの風景などの写真を募集し展示しています |
6) 西口広場の清掃活動 | 町内18団体による可部駅西口広場の清掃活動 |
7) 寺山公園をつくろう会 | 心の古里可部の寺山を再び呼び戻す、里山再生のボランティア活動 |
8) 福王寺登山 | JRふれあいウォーク・真言宗霊山格式と由緒ある福王寺登山 |
9) 高松山登山 | 熊谷城主・高松山城跡と可部の歴史を探る登山 |
1) [可部夢街道町並みの活性化と保存]
次にお示ししている「可部夢街道町並みづくりマスタープラン(仮称)」は、平成21年11月1日に開催した「第6回可部の町めぐり」において展示したものです。
これは、可部夢街道まちづくりの会がこれまで勉強を重ねまとめてきた、この地域の町並みづくりに関する基本的な方針(考え方)を示したものです。
現在作成途中のものではありますが、現時点での成果をご覧ください。
2) [可部の町めぐり]
「可部の町めぐり」は平成16年の開催から、今回で6回目(平成21年11月1日)の開催となりました。雨天という悪天候の日でしたが、近郊から1500人ちかいお客様を迎えることが出来ました。
平成15年、可部駅西口広場の建設計画に伴い設立された「可部夢街道町づくりの会」は、より多くの皆様に可部街道に残る可部の古い町並みや歴史、古民家、商家などを見ていただき、また住民の方々には、あらためて可部街道を再認識していただこう、そうすることが可部旧街道の保存・活性化に繋がると、町内の自治体、町内会、商工会、企業、団体などの支援を受けて、第1回の「可部の町めぐり」を開催したのが平成16年11月です。
JR可部駅周辺から、上市「旭鳳酒造」までの可部街道約9丁(1キロ)が会場で、江戸時代後期から昭和初期にかけて建てられた町並みに残る古民家や商家を開放し、見て、味わって、体験しながら楽しく散策していただきます。
歴史ある古民家、お寺、神社、由緒あるスポットには町の案内人、文教女子大の学生がボランティアで案内しています。
街道を一歩外れると、そこは水の湧く町、迷路のような裏路地道が続く「花の散歩道」です。四季折々の花が植えられた200個のプランターが道案内に配置され、各戸の玄関、庭は草木花が美しく咲きそろい、心やすらぐ憩いの空間を作っています。
健脚の方には、戦国時代可部を支配した熊谷氏の高松城跡の高松山登山が出来ます。マツダOB会の案内で、可部の歴史を学びながら、頂上から眼下に広がる可部の町を見ることができます。
今回は、安芸の高野山「福王寺」が所有する県指定文化財の「金銅五鈷杵」、寺宝4点が展示されました。
年々充実した公開スポットが広がっています、可部の町の魅力を再発見してください。
|
|
|
|
|
|
可部の写真・小物手芸に囲まれてのコーヒータイム |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
3) [花の散歩道]
可部街道(旧道)の西側に沿って静かな路地道があります。平成15年末に「可部夢街道町づくりの会」の発足に合わせて、町民を始め可部を訪れていただく方々が、花をめぐりながら路地道を散策していただくコースを定め、「花の散歩道」となずけました。
町づくりの会員、地元町内会、自治会、あるいはボランティアの皆様の協力によって年2回春、秋の土作り、種まき、苗作りから定植の作業を終えで咲きそろった花を、200個のプランターに植え、約550mの路地沿いを飾っています。
道筋には由緒あるお寺が二つ、神社が二つ、お地蔵さん、格子戸で組まれた古民家、白壁の続く蔵の並びなどを眺めながら、静かで風情ある路地道を散策することが出来ます。 (深田 雄治)
4) [町家コンサート]
| 可部街道を北へゆくと道は直角に2度曲がります。通称「折り目」角には胡神社が祀られ、昭和中頃までは町の中心として随分賑わっていました。折り目を挟んで、明治前半に創業の4代目「入江呉服店」、可部紬の問屋さんで、築150年有余の古民家を改修した「コミュニティサロン可笑屋」が風情ある佇まいを残しています。
|
|
5) [写真展] 「私の好きな可部の町」
毎年「可部の町めぐり」の開催時期に合わせて、可部町にお住まいの写真愛好家の作品を募集しています。
何気なく生活している中で、気付かなかった可部の魅力、私の好きな場所、隠れた可部の魅力を再発見することによって、幅広く可部の町を多くの人に知っていただきます。
作品の展示は、「可部の町めぐり」の開催の日を中心にその前後に合わせて、「可笑屋」コミュニティホールで展示し、後日可部西口広場のコミュニティウォールで優秀作品、佳作の展示を行います。
◆ 募集要項 ◆
「こむねとひろしま」・市民と市政・中国新聞ファミリーなどに掲載します。
第6回作品展
6) [可部駅西口広場の清掃活動]
JR可部駅は、一日七千人の乗降客が利用する広島市北部の主要駅です。一方国道54号線を経由する路線バスは上下合わせて約七百便となっています。鉄道とバスの乗り換え客の安全性・利便性を考慮して、中国地方整備局と広島市が連携し、地元の「町づくりの会」などとの共同協議を重ね、歴史ある可部の佇まいを残すなどのユニバーサルデザインを配慮した、可部駅西口広場が誕生したのが、平成19年12月のことです。
可部の玄関口であるこの広場・トイレを、何時の日も美しく清潔でキレイに保つために、可部町内の18団体のボランティアによって、美化推進活動を行ったいます。
ジュースの空き缶・ペットボトル・タバコの吸殻などのポイ捨てがなくなるのは、ご利用いただく皆様の心がけ一つです。特にガムの吐き捨ての除去には化学薬品が必要です。皆様のご協力によって、この広場が何時までもキレイであることを願っています。
「可部駅広場ボランティアの会」参加諸団体名」
可部老人クラブ連合会・可部南老人クラブ連合会・可部地区社会福祉協議会・安佐北交通安全協会・安佐北区役所・可部駅・大和重工株式会社・友鉄工業株式会社・久保田酒造株式会社・NPO法人ウイング可部・つくし工房・可部やままゆ同好会・可部女性会・可部カラスの会・安佐北地区マツダOB会・可部高校・文教女子大付属高校・可部夢街道まちづくりの会。
7)「寺山公園をつくろう会」
可部街道の背後にお椀を伏せたような小高い標高100mにも満たない丘のような山があります。町民はこの山を「寺山」と呼び、長く親しんできましたが、半世紀を経過した今は、台風による倒木、野鹿などによる被害で枯れた樹木に覆われ無残な姿となっています。 平成19年、約12ヘクタールのほぼ半部の6ヘクタールには、可部高校が移転新築され、隣には寺山公園「やままゆの里」が新設されています。 寺山は町民の財産です。寺山を次の世代に健全な状態で引き継いで戴くために、平成19年、町内10の団体で「寺山公園をつくる会」が結成され48名の実行委員は、広島県みどり機構、広島市森づくり機構、上原自治会、地元有志の支援を得て寺山の森林を整備する活動を行っています。 広島県では、平成19年度から広島県民共有の財産である森林を、県民全体で守り育てていくことを目的とした「ひろしまの森づくり」県民税を導入しています。また、里山整備指導者派遣事業からは、里山整備士の派遣を受け、快適な環境を形成する教育な場、文化、歴史を提供する自然豊かな里山を目指して、寺山公園をつくろう会の実行委員は今日も寺山の倒木処理、雑木の伐採、雑草の下刈りなどの整備活動を行っています。 |
「寺山公園をつくろう会」 関係団体名
◆上原自治連合会 代表 山西 邦雄 ◆可部寺山青少年国際親善協議会 代表 神田 西学 ◆可部山まゆ同好会 代表 山本 高雄 ◆可部夢街道まちづくりの会 代表 遠北 剛 ◆台地区町内会 代表 西田 協一 ◆安佐北地区マツダOB会 代表 山本 宏昭 ◆可部カラスの会 代表 友広 大造 ◆寺山にプレイパークをつくろう会 代表 田川 国臣 ◆子供ネットワーク可部 代表 増谷 郁子 ◆もりメイト倶楽部HIROSHIMA
【 実行委員会役員 】
会長 小田 貢 副会長 山本 宏昭 西田 協一 作業主任 山本 高雄 事務局長・広報 遠北 剛 会計 小西 義孝
|
|
|
|
|
|
|
|
|
里山整備士の指導で雑木の整備作業 |
|
|
|
|
|
寺山公園開園 平成12年2月29日
平成10年3月、寺山公園明るい森づくり作業を中止し行政の指導により、遊歩道づくりの計画に入る。平地部公園から山地部への歩道橋の架橋により、この地を起点に可部側の上原橋ルートを中心に遊歩道の調査、測量を終え5ルート(歩道橋ルート・上原橋ルート・神社ルート・水晶谷ルート・観音ルート)の延長約2K、道幅1・5Mの遊歩道案を行政と協議し、7月より上原神社ルート階段部の遊歩道づくりから本格的な作業を開始する。
公園内は、台風により倒れた大樹、鹿の被害により枯れたままのヒノキ林、道を覆う雑木の繁茂に加えて衛生面でも、鹿の残したダニ対策など予想を上回る問題が山積している。
7団体からの平均出役者20名、毎週火曜日の奉仕作業の素人団体にも拘らず、作業は順調に推移し、樹木を伐採する人、法面を切る人、伐採した木から横木・杭等の製作、階段の取り付け、くい打ちなど、冬には雪の中を、夏は汗を流しながら、遊歩道の出来栄えを楽しみに、気心のあった仲間たちの作業活動が続き、平成12年9月には遊歩道5ルートを作り上げました。
遊歩道作業に引き続いて、道案内板を分岐点に配置し、樹木を調査し木名版を取り付け、展望箇所、あるいは木陰に休息ベンチを置き、子どもからお年寄りまで、自然の中を楽しく散策できるよう配慮した公園が完成し、平成12年2月29日開所式を行いました。
四季を通じての楽しみがいっぱいに詰まっています。桜が咲き、椿が咲き、真っ赤な山さつきも、白い馬酔花がきれいです。秋には、栗ひろいを楽しんでください。
9) 福王寺詣り 紀行文
可部の歴史を語る中で、福王寺ほど多くの歴史を潜めているお寺はなく、それほどまで可部の誕生に大きなかかわりを持っています。福王寺は町民の心の癒しの空間です。1200年深い眠りの中、天平のにおいが息づいている場所です。
国道191福王寺口には石門が2本、ここから28丁別格本山福王寺参道登山路とある。6丁ばかり進むと団地を抜ける。標石は22丁自然は深くなり、早蝉の無く声が響く。刻まれた般若心経を詠み、修練行僧のたどった路をゆく。
参道を壱丁一丁歩んでゆくと、苔むす地蔵尊が木漏れ日の中楚々として佇み、俗の心を遠退けてゆく。標石はあと参丁、綾ケ谷からの参道太子坂と出会う。このあたりからは佛の路、さわやかな風が通り抜け、山のにおいが立ち込める中に仁王尊の山門が開ける。
仁王さんは阿吽の呼吸よろしく、すごい形相をしてお寺を守る仏様。山門に向かって左が阿形僧、右が吽形僧で、1200年の歳月をかけて、不浄のものより不動明王を守る。
山門を過ぎると真正面は急峻な石段、ゆっくりと登って空を見上げると、天を衝く灯明杉(樹齢700年)の中に金堂が立つ。由緒ある格式高い瀟洒な建築美は、真言宗高野山本山の中でもまれにみる名刹である。
不動明王は、目は吊り上って眼光鋭く、手には剣と索をもちいかにも怖い。大日如来が、世俗悪をやっつけるために不動明王を呼んだという。不動明王は真っ赤な焔の中に立つ。焔は、憤怒のシンボルです。
金堂から、四国八八体佛の本僧を模刻した八八対佛が山頂の周囲を巡っている。ゆっくり歩いても半時、どんなに忙しくとも巡礼を試みたい。巡行路は六四体佛で金亀池に出会う。静寂の中に一二〇〇年の遠い平安の昔から、ず~と変わりなく続いてきた歴史の夢を見ながら、巡る天平の里はやがて黄昏てくる。帰り際、鐘楼の鐘を一つだけ衝く。鐘の音は凡音、仏の声、別れをお告げながらゴーンと谷から空絵と消えてゆく。
真言密教高野山 別格本山
福王寺と可部の町
可部庄の平野を見渡す福王寺山の山頂に真言密教の福王寺が建立されたのは、700年代後半この地を訪れた弘法太子の開祖と伝えられています。
1112年、後白河法皇と鳥羽院が高野山に参拝した際、鳥羽院より高野山に可部用途108石を寄進したことから、この荘園が11世紀後半から12世紀前半に院領荘園として形成され、年貢は高野山に、雑公事は八条院が勤任する荘園であったことから、荘園領主の高野山がこの地に別格本山として福王寺を建立し、永く可部の宗教界に君臨してきました。
福王寺の金堂の不動明王は、檜の立ち木に彫刻された代表的な仏像で、その彫刻年代は、山頂霊木に仏像を刻み付ける信仰の行われた藤原時代か鎌倉時代の作と考えあれます。
鎌倉時代、銀山城主の武田氏は福王寺の所領、寄進と安堵を相次いで行ってきました、武田氏のこのような福王寺への外護者としての役割は、同時に僧の任免、寺規制定への関与を伴うような力を持ってきました。
その後福王寺は、修験僧の修練道場として権少僧都5人、権律師10人、阿闍梨10人とその定数25人としていることからも、この寺の規模を伺うことができます。郡内(安芸の国)真言院の総元締めとしてのおもむきをなし近郊では、宮島の大聖院、廿日市の極楽寺、志和の並滝寺にも多くの修行僧を送る寺としての格式をもっていました。
10) 高松山城跡 登山記
熊谷城主高松山城は、地形の厳しい標高339mの高松山の頂上一帯に築かれています。西と南に太田川と根の谷川が流れ、北は桐原川と天然の堀に囲まれた本城跡の東側には、桐原と上原を結ぶ街道が走っており、白木山山系と高松山を分断しています。
根の谷川にかかる寺山橋から山頂の景色を眺め、正面登山口から山に入ります。登り始めてすぐの鳥居を過ぎると石畳の小道が続き、片側には石組みの側溝が築かれています。右には勝圓寺あとの石くみが残り、裏庭と思しき所には生活用水の水場が、今でも僅かばかりの水を残しています。
遺構は、東西に主軸線を置き、南に発生する尾根に加えて「T字形」に郭を配する構造を持っています。郭は、4つの群郭に分かれ、大小22の郭によって構成されています。このあたりから谷沿いの路と、尾根に出る道とに分かれます。尾根に出るとすぐに、尾根を切断するように堀切が、二つ三つと道を切り、急峻な擁壁に守られて馬場跡が広がり、苔むす石組みに馬場井戸が歴史を残しています。左に進むと三の丸、ここに祀られているのが高松神社、勝軍地蔵菩薩です。また一方では、1735年と1746年の可部の町の大半を消失する大火により、京都の火の神「愛宕神社」より分霊された、火元迦具土神が祀られています。
山頂郭群は、最高所の一郭本丸を中心として、四方に伸びる尾根上に郭が続きます。西に二の丸、北には腰部、東に大きな長方形の郭のあるのが鐘の段です。このあたりには大きな石が散乱し、ところどころには石組みの壁が残っています。尾根を下ると堀切状の郭を挟んで、北東に三つの郭が階段状に並び土居屋敷への路となっています。
山頂部の南下の腰部には谷の坊、ここにも石で組まれた井戸跡が残っています。その南の尾根には、七つの郭がある南郭群です。南端部には、石垣を備えた馬蹄形の帯郭となって上原路にとつながります。すべての路は急峻で、すべてが城壁となり、敵の侵入を防ぐ自然の要塞となっています。毛利の一の武将として活躍した、熊谷の往時を忍ぶことができます。