可部の名所、旧跡を訪ねて!!


[可部の名所・旧跡をたずねて!!]

 


♪♪・・可部線鉄道の歌・・・♪♪  作詞者、年代未詳

上八木出でて清流の 太田の川を一跨              流す筏の川下り 交易市と栄えたる
 下れば 一路中島の 次なる可部の町に着く            往時を偲ぶ石畳  舟着き宿場の懐かしき

高松 船山 伊勢ヶ坪  残る城跡西東              遥かに望む朝光に  映えるいらかわ名も高き
  可部八景の一つなる  その名もゆかし千代の松        弘法太師建立の 立木仏の福王寺

河戸薬師の河戸駅  山と水とに恵まれて      今井田駅に近づけば 安芸亀山の発電所
眺め妙なる柳瀬も 汽笛とともに遠ざかる      今は残りし建物が 太田の水に影映す      

安芸の高野山 別格本山 福王寺」      

可部の町の歴史を語る中で、福王寺ほど多くの歴史を潜めている寺はなく、それほどまでに可部の誕生に大きなかかわりを持っています。福王寺は町民の心の癒しの場です。1200年の深い眠りの中で、天平の臭いがい息ずいているところです。
可部を見渡す福王寺山の山頂に、真言宗安芸の高野山といわれる福王寺が建立されたのは、828年(天長5年)弘法太師によって開基されたものと伝えられています。
金堂の不動妙は、座高3,08米胸高直径は1,8米、檜に両足を開いて立つ立ち木仏であって、両肘や手先まで共木で作り出し、また両足の下は自然の根となっています。立ち木仏の面目を伝える代表的な仏像ですが、残念なことに度重なる落雷の火災によって消失し、今は体内仏として姿を残しています。
江戸時代、京都御室仁和寺を本寺として、寺領2000石の勢力として栄えますが、在地領主の没後、真宗勢力の圧倒的な浸透によって衰退し、あるいは真宗に改組する中で、寺領僅か9石を残して広島城主福島氏に没収されています。



金堂



千体の小不動明王に守られて不動明王



御影堂1708年再建 弘法大師御真影を祀る



阿弥陀堂1851年再建 阿弥陀如来を安置



山門 仁王門福王寺最古の建物



鐘楼



広島県指定重要有形文化財
「金剛五鈷杵」
昭和37年指定、福王寺に「寺宝」として保存されています。室町時代初期の作品で、県内では厳島神社に次いで古いとされています。古代インドの武具で仏教では、人間の煩悩を打ち払う、修業の仏具として使われていました。



「さざれ石」
1977年9月3日の落雷による火災で原型は焼失していますが、客殿に保管されています。
豊臣秀吉に焦がれて、毛利元就が寄進していますが、毎夜夢の中で、不動明王が斬りかざす悪夢に胸騒ぎを感じ、金100両を添えて福王寺に返す伝説が残っています



弘法太師行状曼荼羅
3対の中の1点



    熊谷城主 高松城」

1222年の頃熊谷直時が三入荘の地頭職を与えられ現在の大林、桐原、上町屋、下町屋を荘園として、大林に伊勢ヶ坪城を築いて本拠としていましたが、後に高松山に本拠を移しています。この城は展望に優れ地形も険しい標高339mの山頂に築かれています。もともとあった城を大規模に改築して入城していますがその時期は、熊谷氏の力が充実した戦国時代初期という説が有力です。
1591年(天正19年)毛利輝元に従って広島城に移るまでが本拠となっています。可部側からの登山口は、根の谷川に架かる高松橋を渡って川に沿って約200m上ったところにあります。墓地を抜け鳥居をくぐると道は渓谷をたどり険しくなってきます。遺構は、東西、南に伸びる尾根に4つの郭群に分かれ、大小22の郭によって構成されています。
城郭は、山頂近くに「本丸」「二の丸」「馬場」「与助の丸」「明堂寺」などと呼ばれる大きな郭が配置されています。
帰路は健脚なかたは北東に延びる尾根から、3つの郭と深いきり堀が階段状に並んで桐原の土居屋敷跡へ続く道があります。
土居屋敷は熊谷氏が日常の政務を取っていた屋敷跡で、巨石を配した石垣がL字型に残っています。
土居屋敷は、山県郡大朝町(現北広島町)の吉川氏の館跡と並ぶ貴重なものです。



   



高松山城跡 登山口



可部側よりの登山路



深い掘り切りの郭を抜けると与助の丸へ



石組で築かれた馬場井戸跡



三の丸 明堂寺



二の丸



山頂部 本丸跡



鐘の坊跡



土居屋敷跡



 可部の渓谷 南原峡
可部の北部、遠く見える山並みが可部冠・堂床山・備前坊などです。南原峡はこのやまやまに源を発する南原川に沿って形成された断層渓谷です。この渓谷に連なり、加賀津の滝、石采の滝や大滝があり、流れに沿って獅子岩や、竜頭岩などの奇岩を見ることができます。近郊の山には、春は石楠花、秋は紅葉を楽しめる山道は石見街道、可部越えの歴史の道です。初夏の夕刻は、流れに沿って飛びかう蛍の光りが、南原川を彩どります。四季を通して楽しめる町民の憩いの場です。






寺山 可部の歴史巡り
 

山(てらやま)西に可部、東に上原の中央に位置する、標高100mに満たない丘のような小山です。昔の人は、可部の背に屏風のように立つことから「屏風山」と呼び、秋にはマッタケの採れる里山として親しまれていました。テラはて~ら(平)から転じたもので、平らな山を意味したのが元であると言われているが、頂上は平でも、登には結構急坂が続きます。

 

個人のもち山だった寺山を県が買収し、東半部に可部高校を移築し、残り半部は譲り受けています、平成20年安佐北区長の呼びかけで、住民の手による公園づくりが計画され、地区11団体が参加し「寺山公園をつくろう会」を結成し、毎週火曜日を作業日として公園づくりに励み、平成26年度遊歩道2.5Kmを含む自然公園を完成し、現在は市の寺山公園指定管理者として、清掃安全管理に努めています。



 

上原八幡神社

曼荼羅寺の奥の院として建立された神社で、南村(台・上原・可部3~5丁目)を氏子として明治5年村社として指定されました。江戸時代から村祭りには、神楽などが奉納され、馬駆の行事もありました、現在も祭りの前夜祭夜来は住民の秋祭りとして、一年の豊作に感謝し、氏子たちによって受け継がれています。


曼荼羅寺観音堂

法然上人直筆の曼荼羅絵図を奉納するために、熊谷直経が建立した寺で、当時は左に観音堂を構えた広大な境内は、熊谷氏最大の規模で寺領として300石が与えられた領土、財力に恵まれた。曼荼羅絵図を直実に預け、子孫に遺言として大切に守るように申し渡し戦勝の神として熊谷の団結をもたらしたが、芯の目的は川舟交易の把握であり、住民の協力による熊谷団の強化であった。

 


はら観音(耳観音)

寺山にある二個の大岩、イワクラは神の御在所、この大岩は動かしがたく古来より石信仰の神宿る磐として信仰されています。その一つみみ観音は、阿弥陀如来の像が刻まれ、耳の不自由な人が耳に似た石を供えることにより、耳の病が快復すると信じられ、遠方からも多くの人がお参りし、今も住民により護られています。


舟ヶ谷観音(ごめん観音)

寺山にあるイワクラの一つ、岩の左肩に刻まれているのは梵字でキリークと読み、阿弥陀如来を意味します。由来記には、自然発生的に神社権の無いもので、住民が神宿る信仰の磐として祀り、住民の祈願の心の安らぎの観音さまとして信仰されたものと言われています。このイワウラの上に道があり、通る人ごと「ごめんなさい」と一言お詫びの声をかけたことから「ごめん観音」と呼ばれています。



稲荷神社(藤の棚稲荷神社)

昔は50mほど北寄りの藤の谷の岩場に囲まれてありましたが、根の谷川の河川改修工事により現在の場所に移されました。鎌倉時代は熊谷氏の別邸(出城)として居を構えていました。可部の舟交通を支配している舟山城主中山氏を滅ぼし、念願の川舟交通圏を握り可部を支配していましたが、毛利に従い広島城に去った後は廃城となり、藤の棚稲荷神社として町の商人により護られています。




大明神(水神社)

歴史は古く、鎌倉・江戸期より舟交易で栄えた町の船頭の安全を祈願して、金毘羅さんより勧請された舟神様が祀られ、舟入堀を出入りする船頭たちが安全祈願の信仰の場としてお参りをしていましたが、まったく船頭のいなくなった今は、地元住民の奉仕により維持されています。