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可部の歴史

可部庄の成立 「高野山と福王寺」

可部の存在は、1227年11月に白川院と鳥羽院が高野山に参拝した祭、鳥羽院より高野山に可部庄用途の108石を寄進したことで知られていますが、このことからこの地の荘園が11世紀後半から12世紀の間に院領荘園として形成されていたことを確認することができます。1216年度の段階で、可部庄の面積は95町1反220歩であり、可部庄の年貢は高野山へ、雑公事は鳥羽院の皇女八条院が勤任する荘園であったと推測されます。
荘園領主が高野山であったにふさわしく、可部庄の平野を見渡す山頂に、真言密教の福王寺が建立され長く当地方の宗教界に君臨してきました。江戸時代において、安芸
の国真言宗本山として格式ある福王寺は、京都御室仁和寺を本寺として寺領2千石の勢力をもって以降、可部は信仰する諸国の信徒が出入りする、門前町としてにぎわっていました。

熊谷氏の入部と定着



       三入庄伊勢ヶ坪跡(現大林)


      伊勢ヶ坪城跡より三入、可部方面を


             高松山全景


            高松城 本丸跡


平氏が源平合戦に破れ、源氏の世となった結果安芸の国の政治情勢は大きく変化しました。平氏に味方した在地豪族達の所領の多くが没収され鎌倉幕府がこれらをその御家人達に給与し、新たに守護、地頭を設置しました。

関東武蔵の国熊谷郷(埼玉県熊谷市)に本領があり、幕府の権力を背景にその武力を誇示し、熊谷直実は平治の乱で源頼朝に従って以来、石橋山挙兵、義経の宇治川合戦、一の谷合戦に参加し、御家人としてのゆるぎない地位を築いた。その功によって直時が三入庄の地頭職を賜りこの地に入ったのが承久3年(1221年)9月のことです。
熊谷直時は三入庄に入部すると、伊勢ヶ坪に居を構え、根の谷川の北部の平野にある小高い丘に伊勢ヶ坪城を築いたが、まもなく戦略的に選りすぐれた高松山に本拠を移した。
高松山は、可部を背後に太田川、根の谷川、三篠川に囲まれた標高339メートルの地形的には険しい山です。山頂からは可部を眼下に、遠くは広島市が望める展望と、城郭は「本丸」「二の丸」「三の丸」「明堂寺」「馬場井戸」「余の助丸」が配置され、東西、南の尾根には、自然の郭、型堀、薬研堀で強固に固められています。

戦国時代の可部



              毛利元就


         郡山城本丸跡


             青三井山


          銀山城(武田山)


         銀山城本丸要塞


           武田山より祇園市街地


武田氏と熊谷

武田氏・熊谷氏いずれとも関東の出であり、隣接する地に土着しながら、300余年間さまざまな関係を生み出しながら、太田川地域の政治を支配してきました。
熊谷氏は、武田氏の配下として、その地位を保持してきましたが、天文2年(1533年)には武田氏から離反しています。このことは山陰の尼子、山陽の大内の二大勢力の競争の狭間にあった毛利氏の同行に関わっています。

◆ 有田合戦 ◆
西の桶狭間の戦いといわれる「有田合戦」において、武田軍に参戦した熊谷元直は、戦いの知将と言われる毛利元就の初陣に破れ、又内川にて武田元繁の自害によって、有田合戦は終局しています。元直の墓は、伊勢ヶ坪観音寺跡に一族の墓標とともに葬られています。

◆ 横川の合戦 ◆
1533年8月、武田光和は香川・己斐・山県・飯田・粟屋・小河内ら2万の勢力を持って高松城の攻撃に兵を上げています。武田は軍を二手に分け、東を伴五郎を大将として横川大手に、一手は、光和自らを大将として榒手へむかった。熊谷は横川大手は水落備後で背後を固め、搦手は太田川を渡らないで攻撃できる武田の五大武将の一人、牛頭山城の小河内が先陣を切って攻撃してくることを察知し、熊谷信直の率いる兵力によって、小河内の勇、左京亮、左京修理ら、7人の武将を滅ぼした。この結果太田川周辺の武士達は銀山城に敗走、一方横川では山県3千の武士達も本陣の敗走を知り根の谷川に引くが、そこで待っていた水落の率いる軍勢千人によって滅ぼされています。これが後に伝わる横川の合戦で、高松城本陣でのただ一度の戦いです。

毛利氏と熊谷
毛利氏は大江氏の出で、大江氏は音人いらい学問を以って朝廷に使え、菅原氏と並ぶ知名の家柄で、鎌倉幕府の重臣として相模の毛利庄にいましたが、承久の乱の恩賞として吉田庄の地頭職を得ています。

◆ 郡山城合戦 ◆
天文9年(1540年)9月の郡山合戦、山陰に勢力を持つ月山富田城の尼子氏が、3万の勢力を率いて郡山城の北4キロの風越山に着陣、元就は家臣から農民に至るまでの8千人を群山城に収容し尼子軍の来襲に備えた。 尼子軍は郡山正面の青三井山に陣を置き戦いが始まる。11月に入ると武田軍が吉田に向け進軍するが、元就が撃退する。合戦は民衆を巻き込んだ毛利のまさに総力戦であった。
成り行きを見守っていた大内は、陶隆房が尼子軍の陣を背後から攻撃し、尼子晴久が富田城に敗走したのが6月、長きに渡った合戦は吉田盆地を血に染めてついに元就が凱歌を上げる。
大内は、尼子軍を撃退したことによる恩賞として元就に可部、飯室を始めとする4箇所を与えるが、元就は熊谷の献身的な働きを高く評価し、熊谷がかねてより欲しがっていた可部を与えることを大内に進言し承知を得ますが、この事実は武田には内密にされていました。熊谷信直が可部の領主を全うするには可部領主の中山佐渡祐成を撃たなければならなかった。
以後、可部は高松山城に本拠を置く熊谷の支配下で形成された城下町として発展してゆきますが、毛利輝元が広島藩主として広島城を築くと、高松城を廃して輝元に同行しています。

江戸時代から幕末に

1602年、福島正則の時代には「可部屋敷」、1638年浅野の時代に入ると「可部町」として記録を残していることから寛永の時代に可部町が成立したものと考えられます。
可部は、広島城下から北へ4里(16キロ)出雲街道、石見街道の分岐点に位置し、山県郡加計村(安芸太田町)に発する太田川水運、高田郡長田村(広島市白木町)に発する三篠川水運の合流点に当たり、雲石、芸備から人足や馬車で送られてくる荷物が、ここで舟に積み替えて広島に送る城下町広島の内湊としての機能を果たしてきました。

立地条件は、幕藩政治の成立から、領国政治の成立に伴い、物資の流通上欠かせない町として位置づけられてきましたが、広島藩における条件上の公認の町は、広島、尾道、宮島の三箇所のみでした。これらの町には町奉行所が置かれ、大年寄、町年寄、組頭と町役人の組織が整備されていました。実質的に町場としての機能を持った竹原、海田市、可部、廿日市、御手洗、三ノ瀬などの城下町、宿場町、港町は、町年寄の設置だけが置かれた暗黙裏の町でした。



      全ての町家に取り付けられている   


           特徴ある可部の卯建は   




        左官職人の鏝絵の芸術作品です


          可部の町並み1



           可部の町並み2



      可部の町並み、鍵方に曲がる折り目


     可部の商い店 低い2階と鉄格子窓


        可部の屋敷  虫籠格子               



          
      可部屋敷 紬いと問屋  二階出格子


幕末から明治に 可部町の完成へ

可部の町場の形成は、近世初頭の検地によって屋敷の密集した地域にかぎって、町場の四肢が決定されました。その範囲は南北に伸びる一筋の道路を挟んで340軒余の家並みが、東西に50間、南北に8丁16間(現在の明神社から上は上市の八幡神社までの)続く町並みを形成していました。
この町並みも、1715年頃には各町家の屋根は藁葺きでしたが、折り目近くにある数件の鋳物工場の失火により、数回の大火に見舞われ1739年には消失家屋129軒、1745年(享保5年)4月には268軒が消失するなど、市街地の大半を消失しています。
その後の可部の全ての町家は浅野藩の厳しいたてもの条例のもとに防火に備えて、屋根は藁ぶきを廃止し黒瓦葺に葺き替え、家の造りは二階は蔵屋敷、漆喰塗りの土蔵造りとし、窓は虫籠格子戸、家と家の境は半間として、防火用水を設け、袖、壁には火の回りを防ぐ卯建を取り付けるなど厳しい規制の中で、18世紀後半には現在に見られる町並みが形成されました、全国でも例のない防火体制の整った街道筋の町家が可部夢街道の基盤となっています。