◎わがまちの沿革
亀山南地区は広島市の安佐北区の北部に位置します。北は国道191号線南は太田川沿いに広がっています。
太田川は江戸時代から明治、大正、昭和初期に至る 四時代は交通・運輸の面で脚光を浴び太田川筋に舟乗り、筏乗りが投宿する船宿が荒下地区に2軒ありましたが発電所、鉄道の建設で太田川の水運は衰退しました。
1930年横川駅・可部駅全線電化開通した可部線は1936年飯室駅、1954年加計駅、1969年三段峡駅と順次開通しました。その間1956年河戸駅、今井田駅が請願駅として開設され地域住民の多くが利用しました。
その後民営化されたJRは利用客の減少を理由に2003年可部駅・三段峡駅間を廃止しました。現在、亀山地域住民は可部駅から河戸荒下地区までの電化延伸を願って運動を続けています。
【私たち地域の交通機関の写真】
荒下地区の渡し船(年代不詳) | 左に同じ(流水量は隔世の感大なり) | 当時の筏流しの風景(上流からの材木運搬) |
昭和45年大毛寺川鉄橋を渡るSL | 平成15年11月今井田地区を走る気動車 | 太田川鉄橋を渡る電車 |
地域の特産品として西条柿、太田川で取れた鮎を江戸の殿様に献上したと記されています。
1965年代前半から山間部を中心に宅地開発が進みました。特に虹山団地への入居が1971年~72年に始まり人口が急増しました。1974年に亀山小学校より分離し亀山南小学校が開校しました。これより亀山南学区になりました。
私たちの地域で歌い継がれている唄をご紹介します
1,河戸の『柿むき唄』
柿むき唄の由来
河戸は古くから柿の産地として知られていた。上四日市村の頃に『下四日市村を含めて』河戸たりしと云う。
太田川に梁をかけ鮎をとり又干柿を製し、此二品江戸進献(幕府献上の意)の物専ら此地より出る『居民もこれにより生理を資るもの多し』と述べている〈芸藩通志〉
柿献上の慣例では近郷から女性剥手が集まりて夜なべ仕事として、一夜に五百個もの皮を剥がねばならなかったそうである。
2,虹山団地の『虹山音頭』
この唄は平成4年(1992)虹山地区自治会連合会によってに制定されました。
虹山団地の第1期の入居が昭和46年(1971)ですからほぼ20年という期間を経過し、虹山団地の皆さんも落ち着き、第2の発展期に向かっての頃でありました。
爾来、恒例となっている虹山団地の盆踊り大会には 、河戸の『柿むき唄』 とともに地域に根付いています。