庚午雑感6
2011年1月27日 10時01分 [nakayonkai] 明治2年には全国的な大飢饉が起こり、広島藩では二分の一以下の収穫高であった。とりわけ県北の寒冷地(山県郡)では飢饉のため秋から冬にかけ広島城下に食を求めて出てくる者があいついでいた。藩知事の朝野長勲は自らに下賜された賞典録を返上し、積極的な救済策を諮問した。
その結果藩士竹田頼太郎が「従来、新開方に保管していた貯金を持ち、多数の流民や難民を使用して己斐、古江、草津沖の干潟を築き、新田を開く」という案を献策し、採用された。つまり前記の天赦開田と難民救済を結合させたものである。