竜王町の歴史

  2020年現在、ここ10年ぐらい落ち着いた感があるが、第2次大戦以降の戦後、大きく姿を変え、現在の綺麗な、魅力的な町になっていった歴史がある。 1939年(昭和14年)ベース空中写真、国土地理院提供

 戦後は苦難の道を辿る。元々は山陽本線と可部線に挟まれた山あいの位置にあり、小さな山手川を含んで横川駅までの「打越町」だった。周囲は田んぼ、畑ののどかな町だった。 1947年(昭和22年)ベース空中写真、国土地理院提供
 
  しかしながら、広島市のデルタ地帯の毎年のように起きる洪水災害を鑑み、太田川放水路として川の拡張計画(1927 昭和2年)が持ち上がり、工事は1934年(昭和9年)かりゅうの河口から始まった。工事は戦時中に一時中断するなどあり、竜王町に関係する山陽本線以北の工事は1951年(昭和26年)からでようやく土地の買収話が始まった。戦前1939年の写真と戦後1947年の写真を見てもさほど変化は無い。 
1962年(昭和37年)ベース空中写真、国土地理院提供
 1962年の写真を見ると激変する。川の西側の土地は削られ、まず高さ5mの土手の堤防が作られ、300mの川幅の中に長さ20m、幅2m程度の木の「龍王橋」が残された状態が1965年ぐらいまで続き、1966年長さ300mの「竜王橋」が完成する。300mの「竜王橋」ができる前は言わずもがな、梅雨の時期は放水路の中の橋はたびたび水没し、既に架かっていた三滝橋回りを余儀なくされた。やんちゃな小学生らは禁断の可部線鉄橋をトムソーヤの冒険のごとく渡っていた。 そんな中で町名変更の話が持ち上がる。300mも離れた「打越町」と一緒では違和感がある、と言った話からであろう。町名のすったもんだは「竜王町名の由来」に述べた通りである。
 打越町から分離した結果、当時広島市で「世帯数の一番少ない町」となってしまった。おかげで選挙の時は、選挙カーが全く来なかった。ある時、xx候補の選挙カーが移動のためか?放水路の舗装されていないガタガタの土手道をスピーカーを鳴らして通り去った。「おい、選挙カーが通ったで!」「聞いた、聞いたで!わしゃー、xxさんに入れるわ」なんて会話が真顔でされていた。1967年(昭和42年)ベース空中写真、国土地理院提供

 1967年の写真が太田川放水路太田川放水路完成時の状態である。最後に架かったのが龍王橋であった。1962年(昭和37年)に上流に三滝橋が架かり、同じ年に可部線の鉄橋が新設され、翌年1963年(昭和38年)には下流側の山陽本線鉄橋架け替え、更に山手橋が架かった。最後1966年(昭和41年)に龍王橋が架かるが、実のところ元々龍王橋は計画に無かったのである。
 世帯数も少ないし、三滝橋か山手橋を通れということであった。どちらも同じような距離で横川駅が見えるのに大回りになり、旧龍王橋の位置に橋を架けるよう市に町を上げて嘆願した。何度も嘆願書を出したようであるが、キーになったのは1964年(昭和39年)山陽本線そばの山を崩して建てられた広島朝鮮第一初級学校と思われる。数百人の小学生がスクールバスもあったが、ほとんどは横川駅から歩いて来る状態であり、それなりの理由付けが出来たものと推察される。
 かくして1966年(昭和41年)龍王橋が竣工され、1967年(昭和42年)の太田川放水路工事完了までに間に合ったのであった。ただ残念だったのは橋幅が狭く、車の離合は困難で、途中すれ違い用のたまり場が設けられそこでかわす必要があったこと。おまけで付けてもらったのでしょうがなかったか。これが後々尾を引いて、歩道橋や新竜王橋の追加を余儀なくされることになる。 1972年(昭和47年)ベース空中写真、国土地理院提供

 太田川放水路の工事が終わると、すぐに今度は広島市のごみ処理場を竜王町の谷の上に作る計画が持ち上がる。
 1964年(昭和39年)東京オリンピックがあったようにこの頃から日本は高度経済成長期に入り、経済活動が活発になるにつれ、広島市のごみも急激に増え、新規のごみの埋め立て地設置が急務となっていた。町内会では「またやっかいなものを持って来た。世帯が少ない思うて好きにされとる」と反対であった。当時の争点は「運搬車が近くを通って危ない」ぐらいの話で、公害(汚染水、悪臭、メタンガス漏れ)の話は時代的にまだ気付いていなかったようである。結局、運搬用の新しい道路を作る、跡地は綺麗な運動公園を作る、おまけで新しい集会所を作ってもらう、で押し切られる。
 ごみ埋め立て地は1971年10月(昭和46年)からごみの搬入が開始され、1976年3月(昭和51年)まで4年半でごみが一杯になり終了した。1972年の空中写真では竜王橋からの道路はまだ工事中で、ごみの搬入車は、竜王町の谷に沿った道路から上がり、途中専用道路に入って埋め立て地に到達し、帰りは三滝側へ出て行った。 1974年(昭和49年)ベース空中写真、国土地理院提供
 実はこの4年半はどんでもない状況であった。1974年(昭和49年)の空中写真では、龍王橋からの搬入道路は完成し、ごみの搬入は順調であったが、いつしか竜王町の谷は悪臭で充満し、年中消えることは無かった。ごみの汚染水が地下水に沁み込み、谷の小川に流れ込んだものであった。またまた市に苦情申し立て、対策してもらった。日本は1970年代高度経済成長の後遺症で公害に苦しんだが竜王町もまさに真っただ中にあった。
 1970年代はまだまだいろんなことがあった。1973年(昭和48年)山陽新幹線の鉄橋(1974年の写真にも山陽本線に沿って写っている)が架かる。この年に竜王町のマンション街の走りであるグリーンハイツが建つ。
ここにミスター赤ヘルこと山本浩二さんが無名時代住んでいた。1975年(昭和50年)は広島東洋カープ初優勝となる。竜王町もカープ優勝に陰ながら貢献していた? 1974年(昭和49年)には竜王橋歩道橋が架かる。朝鮮学校も学童が増え、グリーンハイツでも人が増え、狭い龍王橋では車が通って子供の通学に危ないということであった。1975年(昭和50年)山陽新幹線営業開始、鉄橋ではなくコンクリート橋だったのでシャーッと走る新幹線に感動したものである。1981年(昭和56年)ベース空中写真、国土地理院提供
 1976年(昭和51年)3月ごみ処理場へごみ搬入終了。1980年(昭和55年)3月竜王公園オープン。1981年(昭和56年)の空中写真を見るとまだ整地されただけのようである。一番上の野球場はまだごみ処理の跡が残る。1988年(昭和63年)ベース空中写真、国土地理院提供
 1985年(昭和60年)に己斐の大迫団地と竜王公園の道が開通する。1988年の空中写真では竜王公園の左端に道が延びているのが分かる。この道路によって己斐の団地から車が流れてきて朝夕のラッシュ時には龍王橋周辺で大渋滞となった。竜王町民にとっては迷惑なだけであり、「大迫団地からの車は通行禁止にしろ」と苦情を申し立て、1989年(平成元年)新竜王橋竣工、1991年(平成3年)開通となった。この小さな町は橋だらけになっていく。竜王町内の渋滞はある程度解消されたが、対岸の打越町は今も大渋滞である。この1991年にようやく竜王公園が全面整備完了となった。オープンから11年がたっていた。
 竜王公園は当初地元優待としてテニスコート、ソフトボールグランドが無料で優先して借りられたがいつしか途絶えてしまった。いい話はこれくらいだった。バブルの真っただ中、暴走族が暴れまくっていたこの時期、竜王公園が綺麗に整備されるにつれ、評判も高まり、暴走族のたまり場になっていった。週末の夜は最悪だった。竜王公園に上がる沿道に若い男女多数がギャラリーとなり詰めかけ、暴走レースが夜明けまで続けられた。その爆音たるや凄まじく、グォグォ、ギュルギュル、キッキー、、といった暴走車の音に人の歓声が混じり、町内に響き渡りとても寝られる状況でなかった。毎週町内の誰かが警察に電話し、パトカーが暴走車を追い払うのであるが、パトカーが去るとまた始まる、といったいたちごっこが続いた。竜王公園登り口交差点
  当時の名残りが今に残る。竜王公園への登り口交差点には「2輪22-6時進入禁止」の標識がある。またドリフト走行ポイントには中央線にポールが立ち、ブロックまで設置されている。また全線に渡って中央線ははみ出し禁止の黄色い線に丁寧に鋲まで打ってある。中央線ドリフトポイントここまでやるとさすがに暴走できなくなった。
 1990年代半ばから道路関係の総仕上げとマンション街への変貌が始まる。2001年(平成13年)ベース空中写真、国土地理院提供
 道路関係では、1997年(平成9年)広島高速4号線(中広ー沼田)の工事が始まり、竜王公園の第2駐車場がトンネルの土砂搬出口になった。2001年(平成13年)4号線は完成するが、2001年の空中写真では竜王公園駐車場の工事現場はまだ残っているのが分かる。
 その前の1998年(平成10年)に竜王跨線橋が出来る。それまでは山陽本線を越えるのに土手下の河原側に降りて行き来していた。これであると大雨の時、道路が水没して通行止めになることがしばしばあり、建設省も問題視していた。そこで山陽本線の上を通す跨線橋を架けるのであるが、山陽本線の上は山陽新幹線が通っている。町としては、「通せるもんならとおしてみい、但し竜王町の谷に降りる道は確保のこと」のスタンスであったが、見事に狭いところを通し、谷に降りる迂回路も山を削って出来た。かくして竜王町は橋だらけの迷路のような町が完成したのである。
 マンション街のはしりは1973年のグリーンハイツであるが、本格化の始まりは1995年(平成7年)ロイヤル竜王誕生からである。翌年1996年(平成8年)広島朝鮮第一初級学校が広島駅裏に移転、1997年(平成9年)パークハウス竜王公園2棟が竜王橋上にそびえ立ち、仕上げは2001年(平成13年)朝鮮学校跡地にフローレンス竜王が建った。2001年の空中写真では全て揃い踏みしているのが分かる。
  町の外観の大きな変化はここまで。2018年(平成30年)には土砂災害特別警戒区域だった山斜面の改良工事が完了し、土砂災害に強くなり、より安全安心な町になった。

 1960年代、太田川放水路が出来、打越町から分離した時、50数世帯だった町が、2000年代のマンション街完成により、2019年627世帯となり10倍に拡大した。2010年代は多い時で三篠小学校の1学年2クラス分竜王町の学童が占めるほどの勢力になり、三篠学区町内対抗運動会では優勝の常連町となり、存在感ある町となったのでありました。