お知らせ

ふりかえりの塔



ふりかえりの塔建設記録(要旨)

 振り返りの塔建設の由来は、アメリカの原子力爆弾投下時に生き延びた人々が、あの時、燃え盛る火の中の「私はもうだめです。早く逃げなさい」と叫ぶ声を聞きながらも、泣き泣きやむなく逃げた悲惨なありし日の事を思い出して、爆死者皆さんに肉親の近くで安らかにお眠り下さい、との思いで建設した悲しい塔です。


 この塔が大変有意義な塔である事を認めて下さった人がありました。

 「繁華街のロータリーの植え込みに建つ<ふりかえりの塔>。これには“逃げて。早く逃げてと叫ぶいとしい人の声もとだえ、後ろがみを引かれふりかえってはころび、火の粉をあびながらふりかえる、あの日あの時・・・・・・” とあって涙なしには読めませんでした。これは、生き残った私たちのだれもが抱える、重い心の傷なのです。それにしても、どの碑文もあまりに控え目なのです。
“平和のいしずえに”とか“国に殉じ”とか。何も語らない石碑ですが、やはり痛烈に告発していると思うのです。残虐な皆殺し兵器を絶滅しなければならない、と」
(昭和五十七年八月一日付の読売新聞広島版掲載の江口裕子記者の記事)


□ 建設実現に至るまで

 昭和52年、戦前から千田町一丁目に住んできた鈴木茂さんが中心になって、町内会で町民被爆死者の慰霊碑建設が計画されましたが、ロータリーの土地の使用に関して、当初は役所からの許可がなかなか下りませんでした。その理由は、広島市としては、市の中心地域で慰霊碑として宗教行事を認められない事と、一度慰霊碑建設を認めると、全市で許可申請を認めねばならなくなるためとのことでした。
そのため、この塔は、「慰霊碑ではなく、美術工芸観音像の建設」という名目で申請し、昭和52年5月に使用許可が公布されました。ここには花立てと線香立ては設置していないのです。

 市役所の関係の課長さんも、犠牲者の霊をお慰めしたいと思う私たちの心中を理解下さり、誠に有難きいきな配慮を下され、我々一同心より厚く感謝いたしております。
 その後、町内会で建設委員会を作り、井口の業者に慰霊碑の建設を依頼し、7月初めに無事完成し、多数の町民の出席もとに完成式と第一回慰霊祭を実施し、今日まで毎年多数の参加により盛大に式典を行っています。

□ 観音像入手の経緯

 この観音像は、元は中国から渡来した貴重な像で、胡ホールの社長青山佑二さんが自宅で大切にお祭りになっていたものを、友人の鈴木茂さんが、千田町一丁目の慰霊碑の守り本尊としてお祭りし、原爆犠牲者の霊を少しでもお慰めいたしたいのでお譲り下さいませんかとお願いをし、譲っていただいたものです。鈴木さんの熱心なお願いに青山さんは、千田町一丁目町民の為になる事ならと快く無料寄贈してくださった上に、多額の募金協力もしてくださり、委員一同大変感銘致し心より感謝いたしました。

 建設委員としてこの事業に取り組んだ方は次のみなさんです。
千田町一丁目原爆慰霊碑建設委員会 推進実行委員  鈴木茂氏、堀江基二氏、今井薫雄氏、二田勝次氏、柴崎敏男氏
 
 町内の皆さん、いつまでもこの慰霊碑を大切にお守り下さいますようお願い致します。
 昭和59年7月 今井 薫雄

☆ なお、現在当慰霊碑は「ふりかえりの塔管理委員会」の名のもとに、千田町一丁目の町内会が管理しています。