山本学区の概要

  私たちの住む安佐南区山本地区は広島市内中心地より国道183(旧54)号線を北へ 西区 横川・大芝を経て、太田川放水路に架かる祇園大橋を渡ると安佐南区に入ります。 183号線をさらに北へ進み、長束を過ぎ、西原1丁目の「西原1」信号を左折して 350m進むと 横川・古市線の 県道「山本口北」信号に到達します。 信号を直進するとJR可部線のアンダーがあります。 このアンダーをくぐると “山本地区” の入り口 山本一丁目一番地 です。 イチョウの葉っぱを連想してください、茎の部分が一丁目一番地です。 ここから正面の山裾まで扇状に広がった地区が我が町 “山本地区” です。 正面の山は右から 「武田山」 、中央の 「火山」 、左手の 「丸山」 と400m級の山ふところに囲まれた閑静な住宅地です。

  昭和30年代の前半までは純然たる農村地帯でした。 現在の山本3丁目 出口組自治会 あたりからJR可部線の線路までは広々とした稲作地帯で見渡す限りの平野でした。 高度経済成長とともに山を切り開いての団地造成、稲作地帯を埋め立てての区画整理事業、宅地開発が相次いで行われ、安佐郡祇園町(山本)が広島市へ合併した昭和47年から、平成の一桁年度までの20数年間でのどかな農村から瞬く間に住宅地になりました。

 山本小学校は昭和36年に「茅原(1丁目」)から現在地の3丁目に移設されました。 同校は明治6年(1873年)に9丁目の民家を教場として 「日成舎」 が創立したと記録されています。 当時の寺子屋式の教室から始まって、139年の歴史を刻んでおります。 4~5年前までは1000名を超える児童数でプレハブ教室で対応していましたが、平成21年春に春日野小学校が新規に開校して分散し、現在は900余名の児童数となっています。 しかし、今なお増加傾向にあり、平成24年春 12教室 が増築完成しました。

 山本地区は増子高齢化が当分続くと想定致します。 市内中心部へ一番近い住環境と、隣接地区へ大型店舗の進出等で生活の利便性がアップしております。 車社会の現在幹線道路の整備はまだまだです。 しかし、地域で生活する人々の安全と安心は猶予を許しません。

 昨年、東日本を襲った地震・津波は未曾有の被害をもたらしました。 亡くなった方、今なお行方不明の方、合わせて19000余名が犠牲となりました。 避難所暮らしの人々は34万余名と報じております。 この大震災を機に 「絆」 と云う文字やことばがクローズアップされるようになり、 「支え合い 助け合い」 のボランティア精神が芽生えて参りました。

 災害は忘れない内にやってくるのが昨今の状況です。 異常気象による大雨、洪水、大雪等次から次へとやって参ります。 86年前、大正15年9月11日早朝 山本に山津波(土石流災害)が発生して、24名の村民がのみこまれて犠牲となりました。 家屋、田畑、道路の流失決壊等の大災害が発生したと記録に残っております。 その後 西山本川の源流域 「三谷川」 には砂防堰堤が数多く築造されて、今なおそれ
が機能しております。

 400m級の山懐に囲まれた山本は 弥生・古墳時代 から人々が生活を始めたという発掘調査記録があります。 7丁目の 「寺山遺跡」 からは竪穴式住居跡、土器、 鉄器 が発掘されております。 3丁目には 「出口」 と云う地名が現存しており舟の出口、つまり港があって、このあたりまで海岸線であったことが伺えます。 小学校の校歌の出だしは ♪朝日かがやく武田山~と唄っています。この 「武田山」 は250m以上が広島県の史跡になっております。 銀山城趾と関連する数々の史跡が残されています。 「広島城」 の前身は武田山にあった「銀山城」であると云われております。

 山のふもとで古くから栄えた集落から 「山本」 の地名が生まれたと考えられます。 私たちの郷土がこれからも発展することを願っております。 皆様のご支援ご協力をお願いすると共に、ご健勝をお祈り申し上げます。
                                                            平成24年3月     
  
 

 

                 

                       平成**年 12月末                      令和2年2月