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1980年代作家司馬遼太郎が紀行文「街道をゆく・芸備の道」の取材で、可部に立ち寄り可部の町の風情を書いています。その一部を転記させていただき、作家司馬遼太郎の見た可部の町を紹介します。

道は太田川の川筋の西側を走っている。この川は源流を山県郡の山中に発し、途中、田畑をうるおしつつ広島市街に入り、市民の飲み水となっている。江戸期は山間の諸地方の物資を広島城下に運ぶための重要な交通用の河川であった。 

広島市街を北に出て10キロもゆくと、道路が東岸から西岸に転ずる。橋を東に渡りつつみると、太田川というのは大きい。水流が東から来、あるいは西から来て、この橋の下手で合流し、Y字形をなしている。三方がひくい山で、その山々の谷底に、水に沿って可部という町が発達した。

可部は広島北方の小市街だが、旧藩のころも川湊としてさかえた。 「可部町屋」と呼ばれ、北のほう、遠くは山陰からやってくる旅客のために旅籠なども設けられた。

橋を東に渡ってから、土堤道をすこし北にむかって歩いてみると、蹟(かわら)おおっている雑草や白っぽい洲、あるいは水に映っている西岸の丘陵の青い脚までが変になつかしい。丼鉢の底のような谷底に住まいをつくってきた日本の集落風景の典型のようなものが、可部であるかもしれない。ただし広島市の都会的熱気の火照りをうけていて、蹟には土木機械がうごき、土堤下には赤や青の看板が多く、せっかくの画面を錐でひっかいているような落ち着きなさはある。                      

太田川とJR可部線

R54より太田川橋に

太田川土堤と可部市街

可部市街地中央


可部のプロフィール

太田川、根の谷川、三篠川によって形成される可部の町は、古くから熊谷氏の城下町として、出雲街道、石見路の重要な交通路として開け、近郊の村落から馬車で集められた年貢米は、浜の明神(明神社)で米蔵に預かり、舟入り堀から広島城に運ばれ、帰路広島からは日用品や食料が運ばれた太田川は舟交通手段として可部の産業に繁栄をもたらしてきました。山県郡の鉄と豊富な木炭による鋳物産業、良質で豊富な地下水による酒、醤油の醸造業は幕末から明治にかけて発展し、商業、文化、交通は安佐郡内(広島市安佐南・北区)の拠点となっています。
明治に入って、日本初の乗り合いバスが横川~可部間に開通し、この期を機会に道路事情が整備されると舟の交通は陸路の交通にと変わってゆきます。
明治後半以降、国鉄可部線の開通により、近郊の人、物資の大量流通は、商業の町可部の基盤を築いて来ました。
戦後、原爆により歴史的な破壊を受けた広島市の復興とともに、昭和30年2月後半から合併への機運が活発になり、昭和32年3月周辺の3村、亀山、三入、大林と併合し新可部町が誕生しました。
その後、経済の高度成長の中で、広島市都市圏から僅か30分前後の通勤距離と言う地理的な条件で、ベッドタウンとしての急速な開発が進行する急激な変化の中で、全国綜合開発計画により、大規模開発拠点を目指している広島市と、周辺の広域都市整備計画が昭和43年制定され、広島市120万都市計画の中で昭和47年4月、可部町を廃して広島市に編入合併され、広島市安佐北区可部が誕生しました。

 ◆ 可部の人口と世帯数 ◆

                         

 人 口       

   男 性  女 性  世帯数
可部11,127 5,2855,8424,923
可部南 4,4272,2052,2522,018
 可部東  4,7402,2242,5162,063

鋳物の町可部 可部の鋳物産業



可部の町と鋳物工場  鋳物の町可部

 

参考文献 「焼畑雑考」Ⅲ 松本茂樹 静岡大学名誉教授 理学博士 (昭和30年可部高校卒)

 

可部駅西口の国道沿いに今でも大きな鋳物工場がある。この工場の名は「大和重工」天保二年(1831)に創業した歴史の古い鋳物工場である。当初は鍋、釜、農機具などをつくっていたが、明治中期頃より五右衛門風呂を造り始めた、第二次大戦後のピーク時には、年間12万個の生産を挙げ全国の生産の中でも随分と高いシェアを占めるものであった。その後はホーローやステンレス、化学繊維のバスの登場により五右衛門風呂は下火となり、生産製品の切り替えにより、今では愛好者の注文による生産で月700~800個が造られている。

可部の町での鋳物生産がいつ頃から始まったか、と言う点については詳しいことは分からない、しかし江戸の初期であったろうとされている。江戸後期には可部の町に何軒かの鋳物工場があり、鋳物師がいて鍋、釜、農機具をつくっていた、可部の町場の中央には「おりめ」、その戎神社の裏には「吹屋」「上仮屋」と言う地名があり、そこには8軒ほどの鋳物屋(吹屋)があったとされる、その隣の「上仮屋」「下仮屋」と言うのは、そこが鋳物を吹いている際の仮の住まいであり、さらにその先には「川原」と言う地名があるが、それは鋳物の屑を捨てる「川原場」であったと思われる。

また、舟湊浜の明神にある舟入堀の跡には、可部の鋳物師三宅惣左衛門によってつくられた鉄燈籠が今でも残りこの町が鋳物の町であったことを象徴的に残している。寺にある梵鐘にも鋳造工場の刻まれた名に二宮とあるのも、可部の鋳物工場の一つで、それらは可部の高い技術と伝統に支えられた質の高い製品である。他にも傍証となる話がある。明治の初めこの地で行われた「偽金づくり」(裏金)の事件である。広島藩が戊辰戦争(186869)の戦費調達による財政危機を救うため、国禁を犯して銅銭(天保通宝)の裏金鋳造を図り、その鋳造を可部の豪商の鉄問屋「南原屋」の主人、木坂文左衛門に命じて請け負わせた、しかしそれが幕府に発覚し、文左衛門は捕えられたが、彼は自分の一存でやったとして、ひと身に罪を被ったという。この事件によっても可部の鋳造の技術がいかに高かったかが理解できる。

吹きが始まると、五日七日は可部の町の空は昼夜を問わず真っ赤に燃え上がる、

振り落ちる火の粉により可部の町の火災は日常のこと、1745年三度目の大火では、130余の家屋の80%を消失したと伝えられる。これ以降浅野藩の防災指示により、可部の街道筋の町家は、瓦は黒瓦、二階は土蔵造り、防火用のうだつを取り付けるなどの厳しい条例により、全国でもまれにみる防災の整った町並みが可部街道を形作っていました。

  

可部紬 (かべつむぎ) 可部の山繭織産業

可部紬(かべつむぎ) 可部のやままゆ織産業

   

   

天蚕とは野山に暮らす蚕です、山繭と呼ばれる大型の蛾で、幼虫はクヌギ・ナラ・コナラなどの水分の少ない木の葉を好んで食べて繭をつくる。その繭からは強伸度の高い良質な絹糸がとれ、それを紬に織特産物としたのが可部つむぎ(山繭紬)です、安芸地方・可部は深い浄土真宗の地で殺生を忌避したため江戸時代養蚕業はほとんど行はれなかった、その中で山繭は蚕が殻を食い破って出た後の抜け殻を利用するため、生命を大切にすると言う信仰上の理由から、この山繭紬は18世紀の初頭から可部の重要な可部紬産業として発展していった。

その行程は、可部周辺の農家の主婦たちが採取してきた山繭を灰汁に入れ、よく煮て水で洗い、ほぐれた繭玉を紡いで糸にする単純な女性の家内仕事で、農繁期を過ぎた農家の女性の副収入としての夜なべ作業でした。

農家の主婦によって紡がれた山繭紬原糸は、塚本久兵衛の糸問屋によって集められ、朝日染工場が洗濯し、また希望によっては染色したのち、塚本糸問屋によって、機織り工場に送り届けられた。

日清戦争以降の好景気に乗って、やままゆ紬の販路が拡張し、明治29年には7人の株主によって可部山繭織物全社が設立された、この頃から生産形態も農家の家内工業から工場制手生産に転換がはかられ、山繭交織紬の大量生産が行われるようになった。可部では、入江・深田・増井・住吉の四つの機織り工場に続いて中島の太田、中原の松井の機織り工場が設立された。これらの工場では、いずれも1520人の織工により紬織が生産されていた。

当然のこと、需要が供給を上回ると塚本糸問屋も可部周辺、豊平小河内・鈴針・飲室・勝木・南原・桐原・八木などの農家を越えて、遠く石見・美作まで足を延ばしている。

この紬は軽くて強く、銘仙と木綿の中間の着物にふさわしいと、関西地方遠くは名古屋までの広い範囲で取引され、大正末期にかけて可部つむぎは全盛期を迎えた。しかし、洋服の普及による着物、和服類、絹織物、綿織物の生産が始まると、大規模な工場生産により、安価な織物が市場に出回り始め、昭和期にはいると可部紬の生産は急速に衰退していった。一度商売に出ると、千両箱を担いで帰ったと噂される入江機織工場も昭和8年には工場を閉鎖している。

記憶に残るのは、戦前、近所に住む老婆が塚本さんから糸を預かり、カタコトと2~3日かけて一反織り、僅かな織賃で生活していた。

可部の舟交通

 可部の町と舟交通 太田川・根の谷川・帆まち川  
  

可部庄は四日市と河戸を津とした川舟の根拠地で瀬戸内海と奥地を結ぶ重要な要衝の地であった。鎌倉時代源頼綱(可部源三郎)は可部庄に本拠を置く太田川、三篠川の流通経済、金融にも関係した個人商人として、交舟の業務を担っていた。太田川は急流もあり、たびたびの洪水による被害を受ける危険な場所であったことから、太田川の分流帆待川を経て根の谷川と合流して、南村寺山の前を流れる水量豊かで、交易舟の運行に適した水路を構築した。帆待川の湊の舟山城主中山佐渡の守が通舟を監視し、川手と称する税金を徴収していた。

源三郎は、竿一本をもって働く船頭の手配、舟からの荷物の降ろし、積み込みの勞役人の業務、手間の支払いなどの湊に出入りする舟を管理した。

「帆待ち」とは、この周辺に住む住民にとっては生活の支えとなることで、帆を上げた川舟が湊に到着すると、待ちかねた住民たちは川舟の荷物の積み下ろしをすることにより手間賃を得ると言う大事な副収入源であった。

頼綱(源三郎)が宮仕のため上洛した後は、宗孝親が安芸の守護に任ぜられ川舟交易にあたる、その頃、三入庄に熊谷直時が鎌倉幕府から地頭として赴任してきた。この時代は朝廷支配と幕府支配の領地が混在した複雑な政治状態で、承久の乱(1221年)で宗孝親が領土を没収され武田氏が守護についたが、文歴2年(1235年)は、藤原親実が安芸守護に補任されている。この頃、同じように鎌倉幕府より承久の乱の勲功により八木村地頭に香川氏が補任されている。

中島、中屋は香川氏が補任された八木領であったが、八木城と玖村の間は狭く太田川の通船を監視するに適したところで、川手と称する税金を徴収するには適した場所であった。そのため従来の権利者との激しい戦いが絶えなかった。

小松原(新庄の領土のうち一分地頭分として、桐原の一部と南村を分ける際に小松原は新庄本家分として残された)が熊谷領であったため、根の谷川の権利は熊谷にあった。初代熊谷直時は根の谷川の水利権を獲得し、帆待川の水利権を獲得するためには、毛利元就の力が必要であった、安芸の守護武田に離反を心し毛利に心を動かした直時は、西の桶狭間の戦いと言われる有田合戦で毛利に敗北後、決定的なものとなり元就の武将として、郡山合戦で窮地に追い込まれた毛利を、大内の援軍により背後から尼子を追放し、毛利に勝利をもたらした、この戦いにより大内は山陽山陰支配した。この功績として毛利に可部ほか4村を与えるが、毛利は熊谷に可部を譲ることを大内に進言する、可部の中山は武田の支配下にあり、武田には極秘裏に中山を潰すことが条件であった。熊谷は寺山に出城を築き落成祝いに中山成祐親子を招待し30余名の部下友どもを討ち取ることにより舟山城主を滅ぼし、南村舟ヶ谷(寺山)に熊谷屋敷を設置し川舟関係者、川漁師関係者を監視した。熊谷時代には河戸、四日市の湊は度重なる洪水で被害を受けたのに対し、南村は被害も少なく舟便の湊として主力となる。舟ケ谷には川舟船頭の安全を願って、金毘羅さんより祭神の霊を勧請し金毘羅神社水神の神を祀っている。中国地方を統一した毛利輝元を豊臣秀吉が大阪城に招待した時、吉田から上根越えに下った時には、直時が茶屋を新築して招待し、草津まで送ったのもこの地です。

のち湊を南村(可部浜の明神)に移し、舟入堀をつくり舟交通の神である明神社を厳島より勧請し、太田川、根の谷川、三篠川の管理にあたる。江戸時代になると、広島城下町と直結した太田川に川舟の発着場「舟入堀」約千平方メートル(水面積一反十二歩)の広さの溜池に、米十二石積の帯舟五十艘を収容する発着場が設けられ、周囲には藩の年貢米を預かる蔵が立ち並び、常時30人の車夫と駅馬20頭が置かれ、川舟50艘と舟頭、町には巡検使を接待するためのお茶屋が建ち並び、豪商の町家が本陣として採用されていた。

舟入堀から幅二間半の掘割水路を南に向けて、太田川まで約十丁の舟交通専用の運河は、年貢米積み出し舟、薪炭、割木、鉄、商人荒荷と舟床銀を徴収され、渡し舟、漁猟舟、遊覧船は出入りすることを許されなかった。やいまち舟、こえ舟は株舟外で年による増減がありその数は定かでない。

川舟によって周辺の山間部や山陰の物産を広島城下町に積み出し、瀬戸内海の海産物や塩を山間部に送り、山陽、山陰街道の中継地でもあり、浜の明神としての賑わいある市場となった可部街道には、商人から預かった荷物、僻地間の中継地点として貨物輸送の施設、広島可部間の整備創業は問屋機能を持った町として発達し可部の機能をさらに発展させたが、明治38年可部軽便鉄道の開通によりその機能は衰退していく。

 

可部源三郎

 

鎌倉時代の源に使える武将で、舟山城主 中山土佐衛門に仕え舟交通の起業家として可部の豪族となるが、宮仕のため上洛後は大田川の水利権が熊谷に移るとともに衰退する。

奥出雲の大鉄山氏御三家、桜井家は、戦国時代の豪傑大阪城落城で福島に沿う塙団右衛門の末裔で、広島城主福島正則に仕え、可部郷に移り住み鋳物業を興すが、その後三代目は妻の里、奥出雲で屋号を可部屋として鉄山業を営む。田部家は、和歌山の徳川家に使える武将田辺であり、山縣の加計家は戦国時代の隠岐国の守護、佐々木清高の子富貴丸五郎、後醍醐天皇の守護職を解任され落人となり加計村の香草に移り、鉄山経営に乗り出し、広島藩一の鉄山氏となる、ちなみに川舟18艘、大阪廻り舟2艘を持ち郡内の重役を歴任する。長州萩の豪商熊谷家は、毛利に使える熊谷の末裔と、いずれも智にたけた武将の変わり身として財を成している。