可部の町と舟交通 太田川・根の谷川・帆まち川

可部庄は四日市と河戸を津とした川舟の根拠地で瀬戸内海と奥地を結ぶ重要な要衝の地であった。鎌倉時代源頼綱(可部源三郎)は可部庄に本拠を置く太田川、三篠川の流通経済、金融にも関係した個人商人として、交舟の業務を担っていた。太田川は急流もあり、たびたびの洪水による被害を受ける危険な場所であったことから、太田川の分流帆待川を経て根の谷川と合流して、南村寺山の前を流れる水量豊かで、交易舟の運行に適した水路を構築した。帆待川の湊の舟山城主中山佐渡の守が通舟を監視し、川手と称する税金を徴収していた。
源三郎は、竿一本をもって働く船頭の手配、舟からの荷物の降ろし、積み込みの勞役人の業務、手間賃の支払いなどの湊に出入りする舟を管理した。
「帆待ち」とは、この周辺に住む住民にとっては生活の支えとなることで、帆を上げた川舟が湊に到着すると、待ちかねた住民たちは川舟の荷物の積み下ろしをすることにより手間賃を得ると言う大事な副収入源であった。
頼綱(源三郎)が宮仕のため上洛した後は、宗孝親が安芸の守護に任ぜられ川舟交易にあたる、その頃、三入庄に熊谷直時が鎌倉幕府から地頭として赴任してきた。この時代は朝廷支配と幕府支配の領地が混在した複雑な政治状態で、承久の乱(1221年)で宗孝親が領土を没収され武田氏が守護についたが、文歴2年(1235年)は、藤原親実が安芸守護に補任されている。この頃、同じように鎌倉幕府より承久の乱の勲功により八木村地頭に香川氏が補任されている。
中島、中屋は香川氏が補任された八木領であったが、八木城と玖村の間は狭く太田川の通船を監視するに適したところで、川手と称する税金を徴収するには適した場所であった。そのため従来の権利者との激しい戦いが絶えなかった。
小松原(新庄の領土のうち一分地頭分として、桐原の一部と南村を分ける際に小松原は新庄本家分として残された)が熊谷領であったため、根の谷川の権利は熊谷にあった。初代熊谷直時は根の谷川の水利権を獲得し、帆待川の水利権を獲得するためには、毛利元就の力が必要であった、安芸の守護武田に離反を心し毛利に心を動かした直時は、西の桶狭間の戦いと言われる有田合戦で毛利に敗北後、決定的なものとなり元就の武将として、郡山合戦で窮地に追い込まれた毛利を、大内の援軍により背後から尼子を追放し、毛利に勝利をもたらした、この戦いにより大内は山陽山陰支配した。この功績として毛利に可部ほか4村を与えるが、毛利は熊谷に可部を譲ることを大内に進言する、可部の中山は武田の支配下にあり、武田には極秘裏に中山を潰すことが条件であった。熊谷は寺山に出城を築き落成祝いに中山成祐親子を招待し30余名の部下友どもを討ち取ることにより舟山城主を滅ぼし、南村舟ヶ谷(寺山)に熊谷屋敷を設置し川舟関係者、川漁師関係者を監視した。熊谷時代には河戸、四日市の湊は度重なる洪水で被害を受けたのに対し、南村は被害も少なく舟便の湊として主力となる。舟ケ谷には川舟船頭の安全を願って、金毘羅さんより祭神の霊を勧請し金毘羅神社水神の神を祀っている。中国地方を統一した毛利輝元を豊臣秀吉が大阪城に招待した時、吉田から上根越えに下った時には、直時が茶屋を新築して招待し、草津まで送ったのもこの地です。
のち湊を南村(可部浜の明神)に移し、舟入堀をつくり舟交通の神である明神社を厳島より勧請し、太田川、根の谷川、三篠川の管理にあたる。江戸時代になると、広島城下町と直結した太田川に川舟の発着場「舟入堀」約千平方メートル(水面積一反十二歩)の広さの溜池に、米十二石積の帯舟五十艘を収容する発着場が設けられ、周囲には藩の年貢米を預かる蔵が立ち並び、常時30人の車夫と駅馬20頭が置かれ、川舟50艘と舟頭、町には巡検使を接待するためのお茶屋が建ち並び、豪商の町家が本陣として採用されていた。
舟入堀から幅二間半の掘割水路を南に向けて、太田川まで約十丁の舟交通専用の運河は、年貢米積み出し舟、薪炭、割木、鉄、商人荒荷と舟床銀を徴収され、渡し舟、漁猟舟、遊覧船は出入りすることを許されなかった。やいまち舟、こえ舟は株舟外で年による増減がありその数は定かでない。
川舟によって周辺の山間部や山陰の物産を広島城下町に積み出し、瀬戸内海の海産物や塩を山間部に送り、山陽、山陰街道の中継地でもあり、浜の明神としての賑わいある市場となった可部街道には、商人から預かった荷物、僻地間の中継地点として貨物輸送の施設、広島可部間の整備創業は問屋機能を持った町として発達し可部の機能をさらに発展させたが、明治38年可部軽便鉄道の開通によりその機能は衰退していく。
可部源三郎
鎌倉時代の源に使える武将で、舟山城主 中山土佐衛門に仕え舟交通の起業家として可部の豪族となるが、宮仕のため上洛後は大田川の水利権が熊谷に移るとともに衰退する。
奥出雲の大鉄山氏御三家、桜井家は、戦国時代の豪傑大阪城落城で福島に沿う塙団右衛門の末裔で、広島城主福島正則に仕え、可部郷に移り住み鋳物業を興すが、その後三代目は妻の里、奥出雲で屋号を可部屋として鉄山業を営む。田部家は、和歌山の徳川家に使える武将田辺であり、山縣の加計家は戦国時代の隠岐国の守護、佐々木清高の子富貴丸五郎、後醍醐天皇の守護職を解任され落人となり加計村の香草に移り、鉄山経営に乗り出し、広島藩一の鉄山氏となる、ちなみに川舟18艘、大阪廻り舟2艘を持ち郡内の重役を歴任する。長州萩の豪商熊谷家は、毛利に使える熊谷の末裔と、いずれも智にたけた武将の変わり身として財を成している。