1.不動院の道標
日警セフティの角にこの道標がある。力強い人差し指の珍しい道標である。この案内は、荒谷山の中腹にある長楽寺の奥の院・不動院の参道であることを指している。
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2.不動院 荒谷山の中腹にあります
真言宗「福寿山不動院長楽寺」の奥の院のご本尊は「不動明王」で、ご眞像は身の丈1尺5寸(45cm)、弘法大師さまがおつくりになったものだと伝えられている。 長楽寺の人々は毎年3月15日、お不動明王さまに感謝する「お不動祭」を行い、境内で餅まきなどの行事を行っている。 梵鐘は、昭和7年鋳造され、昭和18年戦争の激化にともない供出、昭和49年長楽寺の人々の寄付によって、鐘楼と共に再建された。鐘楼から少し登ったところに、昔はコンコンと清い水の湧き出ているところがあった。この水を飲むと病気が治るとか昔から言い伝えられている。 不動院は大正8年大きな修築が加えられたが、昭和36年今のような立派なお堂が建立され現在に至っている。
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3.長楽寺観音堂
延喜5年(905)に真言宗の霊場として開かれ、 戦国時代には武田氏や毛利氏の祈願所として繁栄した。かつては、本堂・奥院・阿弥陀堂・薬師堂・護摩堂・鎮守・神宮のほか、鐘楼・仁王門・方丈などを有した 壮大な寺院であったが、慶長6年(1601年)福島氏が広島城主の時、寺領を没収 され衰退、廃寺となった。 長楽寺跡として石碑が参道入り口に建っている。 最後の住職・優仙が寺の荒廃を惜しみ鎮守社(全景写真の右奥に見える。)とともに旧境内にこの観音堂を建立した。 以来33年毎に本尊観世音菩薩像を拝むことができる御開扉が行われてきた。 近年では平成14年(2002)がこの33年目にあたり、お堂の修復もあわせて9月7日と8日の2日間行われた。祭礼は9月中旬。
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4.新宮神社
かつては、神仏習合によって長楽寺内に合祀されていたが、長楽寺が廃寺となった後、享保元年(1716年)に現在の場所に社殿が移された。 祭神は、伊弉諾神 速玉之神 泉津事解男神 宗形三女神 帯中津日子命 品陀和気命 息長帯日彦命 大山津見神 祭りは毎年10月19日(最近は19日に近い日曜日)。 境内の入口の左右に立つイチイガシ、 イヌマキの大木は広島市の天然記念物に指定されている。社殿の入口にこれらの木が対になって植えられているのは珍しい。 社殿に向かって左側のイチイガシは 、中国地方では珍しい種類の木で、葉の裏に柔らかい毛があるのが特徴である。右側のイヌマキは、広島県では宮島以外に自生は知られていない。
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5.仁王門所在の跡
関が原の合戦以後に福島正則が領主になると、長楽寺領は没収され、仁王門は仁王尊と共に宮島に移された。荘厳な七堂伽藍も維持困難となり、ついに廃寺となった。 その経緯が次のように書かれている。 『福寿山不動院長楽寺境内の本門たる二王門の有った場所である。慶長5年(1600年)徳川家康が江戸に開幕するに当り安芸国を領していた毛利輝元は長州へ退転し、翌慶長6年(1601年)年福島正則、当国を領するに及んで長楽寺所領の寺禄2百石を没収した。 尓来漸次衰頽を辿り終に廃寺の運命に至った。 この所にあった二王門、伽藍は二王尊と共に厳島に移譲し今猶伝わっている。』
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6.長楽寺恵毘須神社
生業を守護し、福利をもたらすとされ、都市では、商売繁盛の神様として有名。 民間信仰の守り神「おんばんさん」が隣に置かれている。 祭神は事代主命。 祭りは毎年10月10日。 この神社は「恵毘須」と書かれている。「えびす」には胡の1文字えびすから、3文字えびすまであり、胡子とわざわざ「子」をつけて2文字にしている場合もある。3文字の場合、恵比須、恵美須と表記する場合がほとんどで、珍しい表記である。
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7.富士川游先生顕彰碑
日本医学史の研究によって恩賜賞を得、日本医学史学会を創立した富士川游氏の碑。 医学と文学の両博士号を取得していた(当時は、森鴎外氏と2人だけ)。 学界における重鎮として海外にまで、その名が知られていた。
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8.田中翁功労碑
県議会議員や安村村長として行政に尽力した田中重太郎氏の功労の碑です。 かってここに、長楽寺村の村長を務めた田中重太郎さんの家があった。 田中重太郎さんは、農民のために「治山治水」に力を入れた人であった。 また、大正末期に三段峡自動車会社を設立し、戸河内と広島間に定期バスを運行させ、その後、昭和18年4月に広島電鉄を統合した。 地元民だけでなく、当時の広島市、安佐郡、佐伯郡連合農会によってこの碑が建立されたとのことである。
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9.武田家終焉の地
武田家ゆかりの血縁の人によって、平成10年に鎮魂のために建立された碑には、「天文10年(1541)武田一族は女人、幼児まで処刑され封印さける」と記してあります。
ここには、その他にも五輪の墓石や江戸時代の各年号を刻んだ墓石が数多く祀られています。また、この地は昔、悪人や罪人を処刑した処刑場であったと言われています。
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10 観音堂古地図
この地図は天保15年(1844) 江戸時代末期の観音堂の地図です。参道、本堂や新宮神社への道は今と同じですが、鎮守社、阿弥陀堂、鐘楼は建っていません。
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