わが歴史
はすが丘の歴史
貞観6年(863年) 安芸の国 に安芸郡が置かれる。平安中期
に、南部が安南郡、北部が安北郡に分割される。永久2年(1220年)
武田信光が安芸の守護となる。寛文4年(1664年)幕命により、安
南郡は安芸郡、安北郡は高宮郡と改称される。
貞観6年(863年) 安芸の国 に安芸郡が置かれる。平安中期
に、南部が安南郡、北部が安北郡に分割される。永久2年(1220年)
武田信光が安芸の守護となる。寛文4年(1664年)幕命により、安
南郡は安芸郡、安北郡は高宮郡と改称される。
明治4年(1871年)には、戸長制度があって、所轄地域にも
大小区と呼ばれる制度があり矢口村・小田村は、岩上村と三川村の
東野・中筋を含めた区域でもって第66区(大区)を形成していた。
大小区と呼ばれる制度があり矢口村・小田村は、岩上村と三川村の
東野・中筋を含めた区域でもって第66区(大区)を形成していた。
明治5年(1872年)に、岩上村が当時の諸木村、末光村、玖村
と合体して第7小区を形成し、矢口村、小田村は、三川村(東野・中筋)
とともに第8小区を形成していた。
と合体して第7小区を形成し、矢口村、小田村は、三川村(東野・中筋)
とともに第8小区を形成していた。
明治17年(1884年)の連合戸長役場が矢口村に設置され、幾多
の制度の変遷の後、明治22年(1889年)に施行された町村制度に
より、新しく口田村が誕生し、これまでの連合戸長役場がそのまま口田
村役場となった。この時の高陽地区には口田村のほかに狩小川村、深川
村(落合は深川村に含む)が同時に誕生した。口田村の村名は高宮郡矢
口村と小田村が合併した時、矢口村の「口」と小田村の「田」を併せ
て命名された。、また、この矢口村について「藝州安北郡八口村」とあり、
矢口の初めには家八軒あって「八口」と称したものが後に「矢口村」と称
するようになったと伝えられている。
の制度の変遷の後、明治22年(1889年)に施行された町村制度に
より、新しく口田村が誕生し、これまでの連合戸長役場がそのまま口田
村役場となった。この時の高陽地区には口田村のほかに狩小川村、深川
村(落合は深川村に含む)が同時に誕生した。口田村の村名は高宮郡矢
口村と小田村が合併した時、矢口村の「口」と小田村の「田」を併せ
て命名された。、また、この矢口村について「藝州安北郡八口村」とあり、
矢口の初めには家八軒あって「八口」と称したものが後に「矢口村」と称
するようになったと伝えられている。
昭和30年(1955年)には周辺の狩小川村、深川村、落合村と
合併して高陽町となり、口田村の歴史は終わり、昭和48年(1974年)
には広島市に編入して「広島市高陽町」となった。昭和55年(1980年)
区制施行により「広島市安佐北区高陽町」になり、昭和61年(1986年)
住居表示が実施され、今日に至る。
合併して高陽町となり、口田村の歴史は終わり、昭和48年(1974年)
には広島市に編入して「広島市高陽町」となった。昭和55年(1980年)
区制施行により「広島市安佐北区高陽町」になり、昭和61年(1986年)
住居表示が実施され、今日に至る。