わがまちについて

1. 川沿いの遊歩道


散歩、ランニングなどに多くの人が訪れる遊歩道

2. 平野公園


手入れされた緑が美しい、市内屈指の憩いの公園

3. 日切り地蔵尊

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「日を切って諸願を成就させる」お地蔵さま

 平野町町内会は日切り地蔵尊を、地域コミュニティづくりの
 ために大切にしています。






町名の由来

明治元年(1868)に旧藩士平野盛蔵が干拓によって新開を拓き、現在の中区平野町、南竹屋町
7・8・11番ブロック付近が陸地化し、平野開・盛蔵開と呼ばれました。
[広島市郷土資料館特別展「広島町新開絵図」にみる浅野時代の広島城下より]
広島は毛利の時代あたりから広島湾や河川の干拓が繰り返し行われ、陸地が南へ南へと広がり
現在の姿になりました。
干拓とは、海岸・河口・小沼などを堤防で仕切り、内部の水を排除して陸地にすること[デジ
タル大辞泉(小学館)]です。我が町も干拓によって拓かれた土地の上にあるのです。
ちなみに現在でも干拓の跡がわかる場所が残っています。ちょうど、日切り地蔵尊がいらっしゃ
る御堂の前の道は広電ボールに至るまで周囲の土地より盛り上がっているのがわかります。これ
はかつていわれた平野新開・盛蔵新開を拓く前の堤防の跡になります。平野盛蔵はそこから川岸
の土手まで間を干拓しました。

わたしたちの平野町

平野町は、東広島市より岩国方面に下る国道2号線に沿い、大田川の支流・京橋川西側に位置し、
国道・平野橋から川下の御幸(みゆき)橋までの細長い地域です。
この町は誕生以来、戦後の都市計画もあり、国道2号線が旧平野町を二分し、その一部は現在の
昭和町に編入されました(昭和40年4月1日、町区画の改正)。
平野町誕生は昭和8年12月1日、鶴見町、富士見町、宝町、および昭和町の4町とともに、南竹
屋町から分かれて生まれました。
歴史的にみれば、江戸時代初期、現在の平野町は竹屋村に属し、一面の茅(かや)の生い茂る
沼地であった。更に、その竹屋村の一部には切支丹(キリシタン)新開があり、隣接する国泰
寺とともに興味深い地域です。
現在の平野町は京橋川に沿って、住宅用マンションが立ち並び、この勢いはしばらく続きそう
です。
市民の評判によると、市内では白島町とともに2大優良住宅地と言われています。
魅力を4点あげるとすれば、日切り地蔵尊、京橋川河畔の桜並木、平野公園、それに御幸橋で
あろうか。
御幸橋の由来は、明治18年5月に完成し、明治天皇の行幸記念に命名されました。
日切り地蔵尊は霊験灼かにして、お堂の中では朝に夕べに線香の煙がくゆり続けており、これ
は町内外から多くの参拝人の存在を示しています。
3月の終りから4月のはじめにかけて、京橋川河畔の桜は川下に荷の島(明治以降の現在は似
島といわれています)を遠望し、広島では随一の景観と思われます。
平野公園は、毎月、第2日曜午前中に町内のボランティアが清掃し、子供たちに快適な遊び場を
提供しています。 
平野町町内会には、福寿会(老人会の名称)などの活発なグループがあり、8月23、24日の
両日に行われる地蔵尊祭り、11月の亥の子祭りなどは子供や父兄が中心となり盛り上がって
います。
今回、町内会がホームページを出すに当たり、わたくしたちの町の紹介を兼ねて、概略を記し
ました。
(文責・南波)


   平成23年9月  石本重夫